Act3.「路地裏の白ウサギ」

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「ご名答。僕は君の言うように白ウサギだよ」 「えっ。まさかそれって、本当に?」  夢子が驚いて彼を凝視すると、彼はその視線を煩わしそうにあしらって、突然歩きはじめた。逃げてしまう! と、まるでそれこそ本物のウサギでも相手にしているかのように、夢子は早足で彼の背を追いかける。  その時、片方の足が痛いということに気が付いた。走ってここまで来る時に、片方の靴を落としてしまったらしい。小石を踏む度チクチクして歩きにくかったが、今はそんなことはどうでもよかった。寧ろ、人魚姫が慣れない地上を歩いた感覚を体験しているようで、その痛みすら面白いと感じる。落とした靴は王子様が拾っているかもしれない。  夢子はこの非日常的な出会いに、すっかり舞い上がっていた。  だから『知らない人について行っちゃいけません』と言い聞かされ続けてきた耳にタコの忠告を無視する。だって彼は“人”じゃないそうなのだから。 彼は、自分を白ウサギだと言うのだから! と言い訳をして。(知らないウサギに付いていっちゃいけないとは、誰も言わなかったもんね) 「あの~……それであなたは本当に、アリスに追いかけられる、不思議の国の白ウサギさん?」 「まあ、状況は違うけど、概ねそんな感じ」  どうでもよさそうに肯定した彼は、一定の歩調で、人気のない暗い道を進んで行く。夢子は軽い足取りでその後に付いていった。  返ってきたその返事がいかに濁っていようとも、否定でないならば、夢子にはどうだって良かった。否定でないことが重要で、可能性にこそ意味がある。例え彼がウサギの耳を付けたコスプレイヤーであろうと、幻覚であろうと、今この瞬間に少しでも非日常を楽しませてくれるのなら、何だっていい。できれば自分が満足するまでの間、冗談に付き合ってくれればそれで良いのだ。  そしてそのまま謎を残して、姿を消してくれるならば結構。ああ、結構! この世界に、少しでも不可解なところを残しておいてくれさえすればいい。それで自分は夢を見続けられる。 「チョッキは着てないんですね」  目の前を行く彼の格好は、童話の白ウサギのイメージとは違っていた。暗い深緑色のシャツに橙色のネクタイ、黒のサスペンダーとスラックスである。ちょっと独特なセンスだ。  彼は夢子の方を見ずに、ぽつりと言う。 「緑とオレンジ」 「え?」 「ウサギってにんじんが好きなんじゃないの?」 「……なるほど?」  夢子は言葉だけは納得の形式をとり、突っ込みたい衝動を抑えた。とりあえず、彼の中のウサギのイメージがその色の組み合わせだということなのだろう。それが何だ。一体何なんだ。  夢子は話題を変えることにした。 「でも不思議の国って、本当にあったんですね。良かった!」 「ああ、うん」 「ようこそ世界の反対側。何一つ、不思議じゃない世界へ」 「どうも」  白ウサギはどこまでも適当だ。しかし夢子も大概に適当なので、人のことは言えない。 「あ、でも、不思議の国からしたら、こっちの世界の方が不思議なんでしょうか?」 「そうかもね」 「いいなあ。わたしはすっかり飽きてしまって……ああ、わたしも不思議の国へ行けたらなあ」  不思議の国。もしもそんな場所がどこかに実在しているならば、人生は今の何倍楽しくなるのだろう。2Dから3Dくらいの変わりようはあるだろうか。行ってみたい。実感したい。不思議の国への入り口は、どこにある?  アリスは穴に落ちて、不思議の国へと辿り着いた。だとすればこの足元に、ワンダーランドがあるのだろうか。ワンダーランドがアンダーランドだなんて、なんて面白いのだろう。 「不思議の国への入り口って、やっぱりウサギの巣穴とか、鏡の向こうとかにあるんですか?」  お差し支えの無いようでしたら、是非教えていただきたい……という言葉が喉まで出掛かった時、突然、彼が歩みを止めた。すぐ後ろに居た夢子はその背中に勢いよく鼻をぶつける。反射的に「すみません」と謝ってしまうが、痛いのは自分だけで、彼はびくともしていない。謝るべきは突然立ち止まった彼ではないだろうか? 夢子は不満そうに彼を見上げる。出会った時から思っていたが、彼はとても背が高い。近い距離ではよりそれを痛感する。そう、痛感。見上げる首が痛い。ちなみに打ってしまった鼻も痛い。あ、足も痛いんだったっけか。 「ここだよ」 「え?」
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