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「ピアノも埃かぶって。弾いてないんでしょ? 練習してないと腕が落ちるわよ。そんなんじゃもう先生に復帰できないじゃない。あんたのピアノにどれだけ金がかかったと思ってるの?」
居間にあるアップライトのピアノを指で一撫でして母が言った。手にしているせんべいのカスがピアノの上に落ちるのは気にならないらしい。
復帰なんてできるわけがないし、しようとも思わない。私は今、精一杯主人と一緒に働いているんだよ。
「弾く時間もないの」
ピアノが習いたかったけれど習えなかったという理由で母は私にピアノを習わせた。私には音大に行くまでの技術も根気もなかった。文系の大学に行ったものの、就職先がなかなか見つからず、カワイの資格を取っていたことからピアノの先生として一時期働いていた。全く皮肉な話だ。あれだけ嫌だったピアノが私の身を助けた。ピアノだけではない。母の敷いたレール通りに私は生きてきてしまった。
「嫌だと思うならやめればいい。幸代が選んでここまできたんだよ」と主人が言った時、自分が選んだつもりはなくてもやめなかった私に問題があったのだとやっと悟った。
「さっきから時間がない時間がないって、時間は作るものじゃない」
だったら私の家に来ないでほしい。
私は口から本音が漏れるのを堪える。
ぽたり。
私の心の中は真っ黒ななにかでいっぱいになりつつある。
「できないなんて言うのは、所詮逃げよ。あんたは昔っからそうだったわね」
やりたくないと言う勇気がなかった。だからできないと言い換えた。それでも結局は母の言う通りにやってきたではないか。
ぽたり。ぽたり。
私は唇を強く噛んだ。
母はそんな私を気にする様子もなく、
「経理は今パソコンでやるんでしょ? そんなに時間かかるものなの? お父さん家計簿つけてるけど、そんなに大変そうじゃないわよ?」
と続ける。
父が大変じゃないというのを母がどうやって判断してるのか分からないけれど、家計簿と会社の経理は違う。会社の経理は一円の差も許されない。それに経理だけではなく、給与計算、取引先への支払い、そして社員さんの入退社の手続きなど、事務員を雇えないうちの会社は事務の全てが私の仕事だ。
「経理だけじゃないんだよ。色々しなきゃいけないことがあって」
「あんた大学出てるんだからできるでしょ?」
「大学で勉強してたことと違う分野なの」
「そんなものなの? 何のために大学を出たのかしらね」
私はちらりと時計を見た。まだ15時半を過ぎたところだ。あと30分は母はいるだろうと思うと胃がきりきりと痛んだ。
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