ハルイロ・スプリンクル

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若草色のペンを戻すと、ペンケースの中は春色でいっぱいになって華やいだ。好きな色ばかりだが、今日は一段と春めいて見える。 「本、持ってやるから貸せよ」 そう言って、小説3冊にヒロが手を伸ばす。 「いいよ、自分で持つから。やっぱり家に直接持ってきてくれればよかったのに」 「それは……先輩と付き合うなら俺が花澄の家に出入りするのもどうかと思って。それに彼氏になった先輩と出くわしたりしたら、さすがの俺のメンタルも死ぬ」 さすがの俺、って何よ。 それにもしかして、先輩と付き合うと思ったから本を貸してもらうことも「秘密にしろ」って言ってたの?  本の貸し借りくらい、彼氏がいても別にいいと思うんだけどな。 花澄はクスッと笑った。 「気を遣ってくれてありがとう。要らない気遣いだったけど」 「うるせー。ほら、貸せよ。筋トレになるから協力しろ」 ヒロという人は、そうやっていつも素直に甘えやすくしてくれる人なのだ。 「じゃあ、お願い。ヒロのそういうところ……好き」 「おぉ」 花澄が本を手渡すと、ヒロはそれを受け取ってパッと顔を逸らす。その時に少し見えたヒロの顔は、見たことがないくらい動揺して照れた顔だった。  教室を出て二人並んで廊下を進みながら、花澄は手の文字を気にしていた。 「ねぇ、ヒロ。この手、恥ずかしくない?」 ヒロの左手には『コロ スキ』、花澄の右手には『好きだ花澄』と書かれたままで、しかも『コロ スキ』なんて失敗作だ。 「テーピングでも巻いて隠すか? 俺持ってるよ」 「えー、洗って落とそうよー」 花澄の容赦ない言葉に、ヒロは目を丸くしてからフッと笑った。 「お前時々、目覚めるほどドライなところがあるよな。試合中もスッゲー頭冷える。やっぱ油性ペンにすればよかった」 「だから油性は嫌だって。それにドライとかそういうことじゃなくて、誰かに見られたら恥ずかしいから言ってるのに……」 「でもな、水性も洗ってすぐには全部落ちないぞ」 「えっ、じゃあ私、家族にこれ見られるの?」 誰に書かれたの? 彼氏できたの? と質問攻めに遭いそうだ。 しかも相手がヒロだとバレれば、お母さんなんてヒロの家と合同でお祝いパーティーでも開きかねない。 「俺なんて『コロ スキ』って何だよって話だ」 「あ、そうだ! ヒロに書いたやつ、もうちょっと文字足していい? そうしたら恥ずかしくないよ」 「何を足すんだよ」 「『コロ』の後ろに、『ッケ』を足す。『コロッケスキ』」 「どこが恥ずかしくないんだよ。そんなこと手に書いてある方がおかしいだろ。大事な思い出を汚すな」 大事な思い出なんだ……。そう思うと頬が緩む。 「そう? じゃあ、一旦写真に残しとく?」 「おぉ。ドライな彼女が洗うか足すかする前にそうしときたい」 ……彼女、だって。そっか、彼女か……。じゃあヒロは……彼氏? 彼氏か……。 花澄の頬は桜色に染まる。 「もうっ、だからドライなんじゃなくて恥ずかしいだけだってば。……だって、ヒロからのラブレターみたいなんだもん」 「……そう言われると急に恥ずかしくなってきた。よし、花澄はずっとテーピング巻いとけ」 「えー、マネージャーがテーピングしてるのおかしいでしょ」 「いいから巻いとけ。誰にも見せるなよ」 「そんな~」 無茶言うんだから、とぼやきつつスマートフォンを取り出し、手を隣り合わせにして一枚の写真に収める。 「撮れた。忘れられない思い出になりそうだね」 「そうだな」 二人でフフッと顔を見合わせて笑う。 そして誰もいない廊下を、若草色と桜色の文字の書かれた手を繋いで歩いた。 「そういえば今日のお夕飯、お母さんが菜の花コロッケにしようかなって言ってた。コロッケ好きなら食べにくる?」 「行かねーよ。いつから俺はコロッケ好きになったんだよ」 これまでと変わらない会話に少しだけ混じるソワソワした気持ちは、まもなく温かな春を迎えるこの季節のようだ。 繋ぎ合わせた手には、互いに記した春色のラブレター。 その文字が消えても、写真に、そして心に刻まれて、ずっと思い出として残っていくのだろう。 手をつないだまま外に出ると、二人を柔らかな風が包む。 その時、ふわりと風に乗って、瑞々しい若草と桜の花の澄んだ匂いを感じた。 【END】
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