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「じゃあ私そろそろ行くね。すっごく寂しいけど」
「何言ってんだか。じゃあまたね梨香子、じゃなかった鋼鉄のパンツさん……ぶっ!」
「あ、最低! 杏奈最低!」
また数日もすれば会えるというのに、梨香子はブンブンと大きく手を振って名残惜しそうに大学構内を後にしようとした、そのとき。
大きく横に振り回した梨香子の手に、ガツンと衝撃が走る。
「え?」
「……っ」
それはまさに、一瞬のできごとだった。
たまたま梨香子の横を通り過ぎようとした一人の男の顔面に、彼女の勢い余った腕が直撃した。
咄嗟のできごとに対する驚きと、あとからやってくる鈍痛が梨香子を襲いはじめる。
けれど、となりにいた男がまるでスローモーションのようにだんだんと傾いていく様子を見て、それどころではなくなったのは言うまでもない。
男が着用していたであろう眼鏡はレンズが割れ、フレームは歪な形を成して足元に転がる。
そして後に続くように男もバタリと床に倒れ込んで、そこからピクリとも動く気配を見せない。
「ちょっ、梨香子!?」
「う、うぎゃあああ! 腕で人を殴り殺しちゃった!!」
「バカなこと言ってんじゃないよ! もう、何やってんのよ!」
梨香子と杏奈はパニック寸前の勢いで倒れた男の元へ駆け寄り、どうしていいのか分からないと言いながら覗き込むように様子を伺う。
生地の分厚い暖かそうな黒色のパーカーに、同じく黒色のスキニーを身に纏っているこの男。
光沢のある髪が顔にかかっていて、どのような表情を浮かべているのか分からない。
ただ、この男はまるで存在感というものがなかった。
梨香子が女優としての地位を確立し始めたころから、彼女は常に粗探しと言わんばかりに記者やカメラマンに追いかけられ、盗撮なんてものは日常茶飯事となっていた。
そんな梨香子は無意識に他人の存在に機敏になり、察知する能力は人一倍長けているはずだった。
それでもこの男には、一切気付けなかった。
「と、とと、とにかくこういうときは救急車だよね!?えっと、番号は……」
「梨香子、ストップ」
半泣き状態になって震える手でスマホを取り出した梨香子に、杏奈は待ったをかけた。
いくら勢いよく振っていた梨香子の腕が直撃したとはいえ、よほど貧弱ではないかぎりその程度で人間は死んだりしない。
杏奈は倒れた男とグッと距離を縮めて、もう一度彼を注意深く観察する。
血を流しているようではないし、どこか打撲して痣になっている様子もない。
心臓だってちゃんと動いているし、健康的な一定のリズムを刻むようにきちんと鼻で呼吸をしている。
「梨香子、この人……」
「やだなに?も、もう手遅れ……とか?」
「寝てるだけだわ」
「え?」
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