01:初恋は、そっと彼の髪をかき分けた瞬間に。

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 床に倒れ込んだこの男は、ただ眠っているだけだった。  梨香子の腕が当たった拍子に、それまでどうにか気力だけで繋ぎ止めていた意識を手放してしまったのだ。  「ほ、本当に?嘘じゃない!?」  「嘘なわけあるか!」  恐る恐る眠っている男の元へ歩み寄る梨香子。  ゆっくりと近くに腰を下ろし、人差し指で顔にかかった男の髪の毛をそっとなぞるように耳にかける。  「……っ」  その瞬間、梨香子は息を呑んだ。  途端に顔が赤くなって、心臓の脈打つ速度も加速していく。吐きだす吐息は急速に熱を持った。  どうしていきなりこんな現象に襲われるのか、理解が追い付かない彼女。それでも目を瞑ったままの男から目を離すことができない。  床に突っ伏して気を失っている彼の顔を見た梨香子は、このとき自分の中で感じた衝撃について「雷に打たれた感覚。まぁ実際に打たれたことはありませんけど」と後に語ることになるのだけれど、何しろ初めて味わう感情に戸惑いとトキめきが忙しく交互に犇めき合う。  「梨香子?顔が真っ赤だけど、大丈夫?」  「……」  「え、もしかして泣いてる? いや、この人ちゃんと生きてるから平気だよ?」  「そうじゃ、なくて」  「じゃあ何?なんでそんな挙動不審になってるわけ?」  「いや、だから、えっと」  これまで梨香子が演じてきた様々な映画やドラマの中には、もちろん恋愛ジャンルも含まれている。  今でこそ世界を股にかけてマルチに活躍する彼女だけれど、生後八ヶ月でおむつのCMデビューを果たしてからというもの、その類稀なる美貌と高い演技力で映像業界からのオファーが絶えなかった谷許リカの経歴は素晴らしいものとなっている。  ひとたびドラマの主演に選ばれれば高視聴率を叩き出し、ヒットになりにくいと言われている恋愛小説や漫画の実写化も見事に成功へと導いた。  さまざまなヒロインの人生を演じてきた彼女には、相当な知識と経験というものが蓄積されている。  けれど、梨香子自身が経験してきたことはそう多くはない。  どんなときも仕事を最優先してきた彼女だからこその欠点ともいえるだろう。  だから自身の中でたった今起こっている現象に、未だ答えを導き出せないのだ。『一目惚れ』という言葉がいつまで経っても出てこない。  梨香子は戸惑っていた。  男を見て芽生えた感情に。  梨香子の人生においてのターニングポイントとなった、今、この瞬間に。
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