なぜ生きるか

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なぜ生きるか ●「真に重要な哲学の問題はひとつしかない。それは自殺だ。」  人生で最初の挫折を味わったころのこと。たまたま手にとった、カミュの「シーシュポスの神話」を開いて、最初に目に飛び込んできたのは、「真に重要な哲学の問題はひとつしかない。それは自殺だ。」という言葉でした。  私はこの言葉に釘付けになり、後を読み継ぐことも出来ませんでした。  実際、そのあとを読んだかどうかの記憶もありません。読んだとしても、上の空だったでしょう。 おそらく私はカミュの言いたかったことなど、まるで理解していなかったに違いありません。 かなり後に読んだ時には、おや、こんな作品だったのかと、ずいぶん違った印象を受けました。  私はいまウェブサイトを検索して、あの言葉を引用したのですが、いまのいままで、カミュの言葉を、「人が真に考えなくてはならない唯一の問題は、なぜ死なないのか、だ。」と思いこんでいたのです。  そしてそれを、「なぜ生きているのか」と置き換えて、この青臭い自問を、半世紀前後、胸底に沈めて生きてきたように思います。  もちろん、この青臭い自問自答は、ある意味で自己欺瞞に満ちています。そんなことを考えている自分は、とにもかくにも生きているのですから。そして、そういうとき、青年は自身の「自己欺瞞」をよく知っているものです。だからこそ、それは何よりも彼自身を激しく苛み続けずにはいないのです。そういうとき、人は、自分が他の人間と同じように、定食屋などへ行って、いつものように「サバ味噌定食」なんか頼んで食べていることに、むしろ現実感が無く、奇妙な違和感を覚えることになります。  当時の私も、現実に食って排泄して寝る日々を過ごしながら、ずっとそんな現実感を半ば喪失したような自分を感じながら生きていたと思います。  私が愛読していた太宰治は、ずっとその「自己欺瞞」(自己矛盾)を生きて、最後に自死によってそれを「解決」(解消)したのだろうと思います。  また、三島由紀夫は、たしか『太陽と鉄』というエッセイ集に収められた文章で、彼が生きた「自己欺瞞」(自己矛盾)に触れています。それは、ある夜、彼の自宅に闖入した見知らぬ若者が、迎え撃とうと対峙した三島にひとこと、「あなたはいつ死ぬのですか?」と言って去っていった、というだけのエピソードです。若者の言葉は、「あなたはなぜ死なずにまだ生きているのか」と言い換えてもいいでしょう。  三島はその言葉を、まるで玉砕部隊からただ一人生き延びた元兵士が聞く、地獄の底からの戦友たちの問いかけででもあるかのように聞き、衝撃で呆然と立ち尽くします。私にはそれは先の「自己欺瞞」に対する自身の指弾にほかならず、自身がなお生きてあることへの根源的な否定衝迫に思えます。  三島由紀夫はこの自己矛盾を、自分という個を超える共同体の倫理に委ねることによって「解決」(解消)したと思います。   私にはいずれも取り得ない「解決」ですが、いずれかと言えば、太宰のそれの方に惹かれます。 ●インドでの体験~彼らはなぜ生きられるのか  なぜ生きるか、という問いは、若者をとらえる言葉の罠でしかない、と考えたこともあります。この自問には答などなく、単に日本語の文法が強いる空虚な問いの形式に過ぎない、と考えたのです。神仏のような超越的なものを信じない限り、人生には、自らにとって外在的な視点からしか考えられないような「生きる意味」などない、と。  大学入学直後から、地方出身の周回遅れのランナーとして、すでに政治的意識で遥かに先行する知識や雰囲気を身につけている関西の友人たちの刺激で、それまでは触れたこともなかったマルクス主義系統の書物に触れて、急速に「唯物論者」に転じていた私は、「人生の意味」は、「ある」のではなく、一人一人が見出し、創るものだ、と考えて、それなりにかねての自問に答え得たと考えたのです。しかし、それは今で言えば、個人の「生きがい」みたいなもので、私が求めていた普遍的な答とは異なるものでした。  では自分の人生に「生きがい」が感じられない人生は「無意味」なのか。あるいはそんな人生は「無価値」なのか。この自問が残る限り、「なぜ死なないのか」という私にとってのカミュの問いかけは、ずっと胸に刺さったままの鋭い矢であり続けました。  時代との偶然とも言える不幸な出会いを、自身の必然と敢えてからませるようにして、大学の友人たちが着実な努力を積み重ねて歩いていく道からドロップアウトして、一人海外を放浪し、どこにいて、何を見ても、何一つ変わることはない、と思い知って、虚しく帰国する途上、南回りの安い航空路線を選んだついでに、訪れたことのないインドをちらとでも見ておきたい、と考えて、その地にほんの数日滞在しました。  空港で荷物検査を終え、鍵をかけ直したトランクを台から降ろそうとした途端に、それを素早く頭の上に担いで掻っ攫って行く、上半身裸の老人を見たときには、泥棒かと慌てて大声を出したほどでした。  私の3倍は生きてきたに違いないその痩せこけた小さな老人は、私が難儀して持ち運んできた、軽く20kgは越すトランクをいとも軽々と片手で頭上にのせ、私の大声に困ったような顔をして、ホテル、行く、というような英単語を幾つか並べると、返事も聞かずに先に立って、驚くほどの速さで歩いて行きます。  私にとって、インドは全く視野の外にあったので、インドの旅行事情などまるで知らなかった私は、荷物を「とられて」、彼についていくしかありませんでした。国際空港のすぐ周囲の街なのに、粗末な建物の並ぶくねくねした細い道路には無数の裸同然の人々が溢れかえっていました。  彼らは何か目的があって集まっていたわけでもなく、おそらくは私の老人のように、空港を出てくる旅客に取りついてなんらかのチャンスにありつけないかと考えて待つ者はあったでしょうが、とてもそんなわずかな需要が満たせるような数ではない人々が、そこで何かをしていたわけでもなく、ただただ未知の何かを永遠に待つかのように、路上にたむろして、その視線だけを私に送ってくるのでした。  私の老人が私を導いたのは、私などが生涯泊まったこともないような、白亜の殿堂といった意匠のホテルでした。そんな「高級ホテル」に泊まるつもりのなかった私でしたが、とにかくまずこの強引な老人から解放されないと自身の行動もままならないと思い、ホテルの入り口で、彼にチップを渡して荷物を引き取りました。たぶんヨーロッパで置いたチップと変わらない金額のコインを手渡したので、老人は納得した様子で素直に荷物を返して去って行きました。  とりあえずホテルに入ってみると、派手な外観ほど豪華な高級ホテルというわけではなく、安普請のホテルの外観を真っ白に塗りたくって、タージマハール風の白亜の殿堂に仕立てて見せただけの、日本なら一つ星もつかない安宿であることがすぐにわかりました。値段も日本の安宿よりまだ安かったので、インドでは安宿ではなかったかも知れないけれど、いまさら重いトランクを持ち歩く気がしなくて、ここに決めました。  私はあの老人のような人に2度と荷物運びを頼むようなことはできませんでした。確かに私が依頼すれば彼は収入が得られ、彼自身の助けになるでしょう。それを私が拒否すれば、彼のあてにした当座の収入を私の意志で断つことになります。しかし、そういう仕事を、つまり、植民地時代の英国人の旦那が植民地の使用人にやらせたような身の回りの世話を、相手を人間とも見做さない態度で、そうすることが当然のように、意識さえせずに命じることなど、とうてい私には出来なかったのです。  それは同情だのヒューマニズムだのというものではなくて、もっと生理的な感覚によって、どうしようもなく込み上げてくる拒否反応のようなものだったから、かえって頭で考えて変えられるようなことではありませんでした。  私はこの世界では生きられないと思い、早々にインドを立ち去ろうと思いました。  ただ、たしか翌日一日だけ、街を見ておきたい、と考え、ホテルに荷物を預け、手ぶらにヒッピーのように何も持ち得ようのない若者らしい軽装で、その都市の交通の中心だった主駅まで行きました。どこへ行っても、その都市の主駅、都心、市場、中心広場、代表的な歴史•美術系ミュージアムまたは中心寺院だけは、できる限りこの目でみるようにして、ヨーロッパ諸都市を彷徨しても、大小を問わず100都市以上の訪問都市でそうしてきたことだったからです。  駅に近づくにつれて異様な雰囲気が濃く漂っていました。  今まで日本でも一年いたロンドンや、半年彷徨し100近いヨーロッパ諸都市でも経験したことがない、膨大な数の人々が、あの飛行場周辺の路地に溢れていた路上の人々と同様に、何をするでもなく、ただそこにあり、まるで何かを待っているかのように思い思いの姿勢でうずくまり、寝そべり、語り合い、また貝のようにむっつりと押し黙ってしゃがみ込んでいました。  格別の荷物など持っていそうにはみえない、殆どが裸同然の布切れ一枚巻いただけのような姿をさらしていました。汽車の到着を待つわけじゃなく、誰の到着を待つわけでもありません。  駅を使う旅客たちは、外国人であれインド人であれ、遠くからはっきりそれと見分けられる、パリッとした旦那衆でしかあり得ない服装で現れ、彼ら群衆の間に開いた細い通路を、足早に颯爽と駅構内へ歩み去るだけです。それはまるで、人間ならざるものの群れの中をかき分けて行く人間といった対照を際立たせるための光景のようでした。  私がさらに駅の構内に足を踏み入れて見出したのは、外の駅広場を埋め尽くしている群衆の密度をさらに濃くした、過飽和なまでに密集して床を埋めている、同様に無限に続くかとも思える無為の時間を生きる群衆の姿でした。私は気分が悪くなってほとんど目眩を感じ、慌ててその場から立ち去りました。  あの人たちは、ああして生涯の時を費やすのだろうか。そうして死んでいくとすれば、あの人たちの生きる意味はどこにあるのだろうか。人の命の価値、人が生きることの価値はどこにあるのだろうか。  人も所詮は獣たちと変わらない、ただ生きることの意味も知らず生まれ、生きるために食べ、食べるために生きて、無為に時を過ごして死んでいくだけの生き物なのだろうか。その命に、生きることに、どんな「価値」があるのだろうか。  私が胸底に押し殺していたもう少し若い頃の自問が再び浮かび出て頭の中を占領していました。  一方では、生物系学科にいたこともある私にとって、ダーウィン流の進化論的な自然観は自然であり、ヒトがそうした生物進化の末端に位置する動物生であることは自明の理でした。それは自然過程であり、なんら外在的な意味や価値を持ち込むことは出来ず、ただヒトの動物生はそうしたものだ、というだけのことであることは自明の理でした。そこに外在的、超越的な「意味」や「価値」を持ち込むことは、私には初めから禁じられていました。   死ねば死にきり。自然は水際だっている。  吉本隆明さんがしばしば引用する、高村光太郎のこの言葉は、私も大好きです。しかし、私はやはり、神や仏に頼らず、しかも人それぞれの生きがい、といったものとは異なる、そう言って良ければ普遍的な「生きることの意味」、なぜ人は生きるか、なぜ人は死なないか、という自問から逃れきってしまうことはできなかったようです。  もちろん、私もこんな自問を毎日頭に浮かべて暮らしていたわけではありません。むしろそんな自問などに意味はないかもしれない、ただ自分は目の前の現実から逃避したいだけなのかもしれない、と思い、そんな自問は胸の内で抑圧し、深く意識の底に沈めて生きてきたと思います。   ●失業時代~無私の造型  海外放浪で現実の生活に身を立てる手立てを見つけるでもなく、なんらかのスキルや役立つ知識を身につけるでもなく、いわば漫然と一年半を過ごして帰国した私には、その後4年前後の失業時代が続きます。そんな生活無能力者の私に、対極にあるような生活の達人のような学生時代の友人があり、私同様に時代の行きがかりで大学の制度的な道筋からはドロップアウトして、大学付近の酒場でマスターをしながら活計を立てていました。  一人京都に舞い戻ったものの、ただ闇雲に運送業の市内配送車の運転手をしたり、地方都市の市役所で毎日ひたすら田んぼや畑の地図に色塗りをする仕事をしたり、文房具店の店番をしたり、ただ日銭を稼ぎながら、漱石全集を読み、自分にはこれしかないと思って、とにかく毎日疲れた体で原稿用紙にあてもなくただ書つづけるだけの日々を送りながら、途方に暮れていた私に或る人物を紹介してくれました。  彼が、その追悼文集に私も依頼されて「無私の造型」という一文を掲載してもらった故•八木俊樹さんでした。彼はその頃、京都大学に学術出版会を創設しようと計画を立案し、総長以下、各学部の有力者である教授たちを説得するために奔走していました。彼のことを畏怖するかのように語る周囲の人たちによれば、彼はかつては過激派と言われた、伝説の前世代の学生運動の指導者であったらしく、理論的、組織的に学生運動の一派を牽引した人だったようでした。  私が接点を持った70年代初頭、もう全共闘運動が総崩れして、大学権力に抗った学生たちが弱い個人に解体され、それぞれにこの社会の片隅に散っていかざるをえない時期にあたり、白けた空気が支配していましたが、彼の周囲にはまだ、かつてのものものしい雰囲気を残した人物が幾人も、つかず離れず彼と接触しながら、依然として彼の指示や意向に従って動いていました。  私はもういかなる共同性に与する気にもなれなかったし、彼のそうした側面には能う限り関わりを持たず、知ろうともせず、ただ生活を立てるための賃仕事と割り切って、雇用され、彼らが活動の資金源としていたらしい大学の卒業者名簿の隔年の編纂•出版実務に、編集実務のキャップとして、その後4年間、2度の編纂•出版に携わることになりました。  隔年の出版の間の年には、彼らが立ち上げたミニ広告代理店の社員としての仕事にも従事したり、八木さんが持ってくる谷川雁(彼となら心中してもよい、と漏らしたことさえある八木さんの熱愛した詩人•革命家)が匿名で書いたと彼が同定した古い雑誌の原稿を集めた海賊版(最終的に本人の了解が得られなかった)のゲラ校正等々も八木さんの指示でやったけれど、基本的には学内の片隅にあった、いまは使われていなかった古い木造校舎を学生部のシンパの配慮で借りた作業場を本拠に、電話帳くらい分厚い京大創設以来の卒業生名簿を編纂、刊行する作業に就いていました。  しかし、学術出版会設立の話はまったくいつになれば目処が立つかも見えず、八木さんたちの動きも、彼なりの党派的な学内人脈をおさえた成算はあったのでしょうが、突き放して見れば、任意の卒業生個人の発意と自主的、ボランティア的な行動に過ぎなくも見えるその実際的な位置づけも、彼が寡黙な人だったこともあって、私の位置からは見えませんでした。  彼らの資金源であるらしい名簿の財務についても、日々の出納帳は私に管理、記帳させてはいたけれど、毎日のように八木さんの部下(というより、学生運動時の上下関係の名残としての中間管理職的な位置にある実務にも長けた人)が来て、厳しくチェックしていました。だから、私は名簿の売り上げなどより遥かに大きかっただろう各種広告料収入や広告取りや営業の人件費支出など、名簿全体の財務や、過去の分も含めた資本蓄積については、全く何も知らされず、ついに知ることもありませんでした。  彼らは、その一番要の部分だけはがっちり押さえて、二、三の中心メンバー以外には固く部外秘としていたようです。むろん、各種広告掲載料や獲得される広告点数を数えれば、およそどの程度の収入があるかは見当がつかなくはないし、広告取りの時期に作業場に出入りする普段見慣れないスタッフの様子を見ていれば、それがなお社会に潜伏するような形で彼らの信じる革命に殉じる人生を黙々と送る、普段は決して私たちの前に姿をあらわすような人たちでないことは察することができました。  中の一人とは「上司」を挟んで何回か食事を共にする機会がありましたが、シャープな頭脳としなやかで優しく繊細な心がはっきりわかる、私には非常に魅力的な人に思えました。ただ極めて自制的で個人的な欲望、欲求を断念して切り捨ててきたことが彼自身になってしまったようにみえる、動作一つ、表情ひとつ、言葉付き一つ、極度にシャイで謙虚な、抑制された態度、語り口に見えるのが、私には痛々しい印象も残しました。  私は、「もと活動家」の同窓会メンバーとしての序列に帰属して、私のような党派的な政治の圏外にいる「部外者」に対して大きな顔をしているような周囲の人間たちよりも、はるかに彼の方が好きでした。しかし、もとよりまるで別の世界に生きる人で、ただある短い期間に数度接点があっただけのことでした。  ある日、食事をともにしたあと、彼が携帯で肉親にかけた電話で、○○です、と下の名を短く告げたとき、私が知らされていた彼の名とは違ったことから、私は自分の知る彼の名が本当の名ではなかったことに気づきました。  だから、いまも私には彼がどこの誰であったのか、どんな人であったのか、わかりません。  私は足掛け4年ばかり、こんな世界にいて、学生の仕送りでも2万円代に差し掛かる時期、初めは月給2万円、試用期間を経て4万円という、当時でも極端な低収入で、朝から晩まで大学の片隅の古い木造校舎で働き、一間の学生下宿に暮らす生活を一人続けて、学術出版会の本格的な準備過程が立ち上がるのを待っていました。下宿が隣部屋だった同志社大学の学生たちが14-15万の月収で雇用されていくのを羨ましく見送る時代でした。  学問の世界を足蹴にして跳び出した自分ではあるけれど、学術的な知識万般に関心がないわけではなかったし、八木さんが語るような学術出版会の仕事なら、自分が継続してやれるような気がしたのです。そのときには、何事につけポジティブにやろうという気持ちから遠かった自分がなぜこれならやれるかも、と考えたのかよくわからなかったけれど、いまならある程度自身のその時の気持ちが理解できます。   私は八木さんの追悼文集に寄せた一文「無私の造型」を書いたとき、八木さんがやろうとしていた編集者の仕事、その生き方というのは、自己消去、自分を消していくことではないか、と気づいたのです。編集者の仕事は、自分を表現することではなく、他人である著者の表現を世に問うことであり、ときにそれを促し、励まし、共に戦い、導いて、著者の主張、著者の思想を世に問うことです。彼の成功は、その時に彼自身を完全に消去してしまいことによって完成します。編集者の努力の跡が、爪痕が残るような著者の本などキメラのごとき化物でしかありません。  少なくとも、八木さんの本作りへの偏執的なこだわりには、学術を世に出すことへのポジティブな意味づけとは裏腹な、一人の人間としての生き方の断念があったと思います。彼が出版してしまった谷川雁著作とする海賊版『無(プラズマ)の造型』をもじった私の一文のタイトルを「無私の造型」としたのも、彼のそうした自己消去への願望に気づいたからでした。私もそんな仕事なら自分にも出来るかもしれないと感じたのです。  一方で書くことを通じた自己表現に激しく執着しながら、私は自身の胸底に沈めたポジティブなもの一切に対する生理的な拒否反応、「なにものでもありたくない」、「なにものにもなりたくない」、という密かな、強い衝動には、自身で気づいてはいなかったようです。  八木さんは、東大出版会などよりもはるかに硬派の純然たる学術書、それも日本の今後百年単位の学術、思想の堅固な基礎を形作るような、西洋古典の網羅的なカタログを用意しようと考えていたようです。おそらく伊、英、仏、独などにはあるだろう、古典ギリシャ、ローマ•ラテンのあらゆる重要文献を網羅的に集めたような西洋学の土台をなす古典全集のようなもののイメージが頭の中にあったのだろうと思います。  だから、その極めて不完全なミニモデルとも考えられる、当時継次的に出版され始めたばかりだった講談社の学術文庫を、彼は片端から買ってきて、分野を問わず、とにかく全部読む、といった姿勢で、常に名簿づくりの部屋のデスクに足を上げたまま読み耽っていたものです。  もとより講談社学術文庫は、単に以前に単行本で出された学術書のうち、一般読書子にも好評だったが、時を経て絶版になるなど、入手しがたくなったものを中心に出されてきたもので、なんら学術的に一貫した出版企図のもとにだされたわけではなく、新たな執筆や新訳によるものも、少なくとも当初は少なかったと思います。  ともかくも、そんなことをしながら、辛うじて暮らしを立てながら、仕事としても、生活的にも、まったく先が見えなかった事情は、正直のところ不安で、心折れるものがありました。普通であれば、生涯の武器を磨いて日々自己研鑽に没頭すべき二十代の後半を、私はそうやってただ受け身で何かを待ちながら、デスクの前でできる単純作業を日がな繰り返して費やしました。  三十歳を目前にしたころ、私を八木さんたちに引き合わせてくれた友人から、そのころ彼自身が自営業の酒場を畳んで就職していた京都市内の小さなシンクタンク(政府、自治体、企業などの委託を受けて、政策志向的な調査、研究を有料で行う民間の研究所)に誘ってくれました。  この会社は市内では大きい信用金庫の理事長がバックアップして作った、関西を中心とする仲良し文化人グループの知的サロンで、そこには川添登(建築評論家)、加藤秀俊(社会学者)、小松左京(SF作家)、梅棹忠夫(民族学者)、多田道太郎(仏文学者)、粟津潔(グラフィック•デザイナー)、米山俊直(社会学者)、浅田隆(建築家)、黒川紀章(建築家)など、当時の錚々たる知識人、文化人が、「株仲間」と称する小株主であると同時にいつでも知恵を提供する協力者として名を連ねていました。  しかし、当時の私にとって、彼ら文化人は全て一絡げにして、不信と侮蔑、生理的拒否の対象でしかありませんでした。実際、書店の教養書棚を独占するほどの彼らの書いた啓蒙書的な教養本の一冊や二冊は誰でもが読んでいそうなものでしたが、私は高校時代や大学入学直後の乱読で読んだものを例外として、彼らの書いたものを多分そのころは一冊も読んではいませんでしたし、目をくれようともしませんでした。だから、彼らの出入りする知的サロンに自身が足を踏み入れるなど、思いも寄らないことだったし、声をかけられたときはひどく迷いました。  私がその誘いに乗るとすれば、ただ一つ、収入面で相対的な安定を得て生活面でしっかりと自立する基盤をつくること、これに尽きました。そのころ、私は名簿作りの職場で今の伴侶に出会い、既に結婚していたので、この思いは自然、強かったのです。学術出版会の展望が見えないことも私の転身への大きなモメントになりました。  私は文化人への拒否反応には目を瞑り、自分は単に賃仕事としてこの仕事に就くだけだ、と自分に言い聞かせ、思想と生活とを割り切って切断しようとしていました。私が率直に一つ上の上司に相談すると、彼は、「お前にはその方がいいかも知れんなあ」と、引き留めるよりは私の立場に立って、むしろやんわりと背中を押してくれるような言葉をかけてくれました。  私はいまの伴侶を引き合わせてくれたことと、このときの彼の言葉を、深い感謝と共に生涯忘れまいと思ってきました。  ただ、シンクタンクへの転身を決するのは行く先の経営陣であり、現役社員(主任研究員)であった友人の推薦があるとはいえ、何か評価し得るような論文らしきものを提出すること、その上で二人の代表取締役、所長川添と前所長加藤の面接を受けることが条件でした。面接はともかく、私はそれまで、人に見せるような論文など一つも書いたことがありませんでした。  理学部時代は、卒論さえ義務付けられない「卒業実習」の長文レポートでよかったし、文学部へ転じてからは、ろくに学ぶ機会もないまま大学闘争の勃発に遭遇したので、元々アカデミズム志向などない私には一編の小論文さえなかったのです。  二十歳のころから書いていた書きかけの長編小説の未熟な挫折した習作ならいくつかあったけれど、まさかそんなものを見せるわけにはいかないし、それらは私自身が隠しおおせたい恥部にほかなりません。  その時私が何か少しでもまとまった思想を表現しうるとすれば、たった一人、二十歳のころから隈なくその全著作をフォローしてきた特異な思想家、吉本隆明についてだけでした。 ●吉本隆明との出会い~根底的な価値転倒  この辺で、私にとっての、吉本さんの思想の持つ意味に触れておかないと、かえって分かりにくくなるでしょうから、私の現実的な就職の話から外れるように見えるかとは思いますが、逆説的に密接な関係にあるので、少し厄介だけれど、書いておきましょう。  私が吉本隆明という詩人、思想家の名をはじめて認知したのは、何度か別のところで書いたことがありますが、私が大学に入学してまだそう間もない日のことだったと思います。私が籍を置いた大学へ外部から講演に来た鶴見俊輔が、何も資料なしに自由にさまざまな情況認識や他の知識人に対する評価を饒舌に語る中で、際立って高い評価を与えながら、何度となく口にする名が「ヨシモトリュウメイ」でした。  それは私には聞いたことのない名であり、「リュウメイ」とは変な名だな、号か何かなんだろうか、などと思いながら聞いたのを覚えています。 私が鶴見の話を聞きに行ったのは、理学部にいて理論物理に憧れたりしていたので、武谷光男の自然認識の発展段階説、いわゆる「三段階説」(人間の自然認識は自然自体が持つ構造に従い、現象論的段階→実体論的段階→本質論的段階と進められるとする)などの所論に惹かれ、これを雑誌「思想の科学」を通じて、思想的な観点から高く評価していた鶴見に関心を持ったからで、鶴見の哲学についても吉本との関わりについても、そのころはまったく知りませんでした。    鶴見の話を聞いた直後に、まだ大学の近くにあったナカニシヤ書店で吉本隆明の『言語にとって美とは何か』をはじめ、書棚に置かれた彼の初期著作まで、財布の中身が許す限り全部買い込んで、その日から読み耽りました。  それは鮮烈な体験でした。  一読して、彼がこれまで私が恣意的に濫読してきた現代の諸々の知識人たちとはまったく異質な、独創的な文体と思考を備えた著者であることがわかりました。いや、そんなことよりも、この人には、他のあらゆる物書きたちには無い、一人のトータルな人間としての倫理を賭けた、物書きとしての倫理がある、ということが確かな手応えで実感されました。私にとっては、それだけが唯一、ホンモノであることの証でした。  これ以前はもちろん、これ以降も今に至るまで、半世紀の間には少なからず様々な思想的な本に触れてきましたが、私はほかに彼のような(私がそう呼ぶような意味合いでの)「ホンモノ」の思想家に出会ったことはありません。  彼の最初の主著となった『言語にとって美とはなにか』は、一読して、文学表現の基礎理論としては無論のこと、およそ人間の思想表現自体に基礎を与える、マルクス主義のいわゆる下部構造を基礎づける理論(資本論)に匹敵する意味を持つ野心的な労作であることが、すぐにわかりました。  なぜ一介の怠惰な読書子だった私に、一読しただけで当時そんなことが見抜けたかと言えば、大学入学以来、進歩的な空気を身につけた関西の友人たちや学内で語られる言葉に追いつこうと、私がそれまで触れたことがなかったマルクス主義系の文書を含む思想、社会科学から人文系さらに文学論、文芸批評に至るまで、また思想的な文脈で語られる限りでの理系の文献に至るまで手当たり次第に濫読し、自分なりに、どこにいま思想的な困難が集約されているかについて、見当をつけていたからだろう、と思います。  それは、一言で言えば、マルクスがやり残した世界の半分をどう扱うのか、ということです。  下宿での隣人たちと着手した資本論の第1巻を読み、ほかに何冊かのマルクスの著作を読み、歴史の動態に関する見方や、いわゆる下部構造の分析に関して、これが乗り越え不可能な思想であることはすぐに分かりました。 文芸に関心があった私にとって残された最大の問題は、マルクスが十分に展開しなかった、世界の残り半分、人間のあらゆる観念の世界をまっとうにとらえることができる、本質的な原理論がどのような形で可能か、ということだったと思います。  無論こんなことを当時明晰に考えていたわけではなく、当時は闇雲に手探りしながら、わずかでもこうした欲求に触れて来そうな思想を見つけては読み耽って、何か確かな方向が見出せないかともがいていたに過ぎません。そんな過程をいま振り返って後付けで整理して語れば、あのとき自分はこんなことをして自分が欲しがったものを探していたんだなぁ、と考えている、というだけのことです。  その時代に、自身がどんな立ち位置で、どんな意味を持つ行動をしていたか、透徹した認識を持って理解し得ているようなことは、凡庸な私にはあり得ようはずもなく、主観的にはまったくSturm und Drang (疾風怒濤)の時代でした。  そんな中で、私が「マルクス以後」の課題への手がかりとして読んできたのが、三浦つとむ、津田道夫ら日本の異端マルクス主義者たちの意志論でした。とりわけ、啓蒙的な易しい体裁で書かれた、三浦つとむの言語論『日本語はどういう言語か』は、言語表現のモメントを「主体的表現」と「客体的表現」としてとらえ、具体的な文章や文法にいたるまで、一貫した原理で解明した画期的な著書で、大きな影響を受けました。それまでの凡百の恣意的な評価や嗜好の表明に過ぎなかった文芸論や当時のマルクス主義者が信奉したスターリンの言語道具説にとどめを刺す、唯一の信頼に足る言語論であることは、すぐにわかりました。  また、彼や津田道夫一派、さらに後にはこれを拡張深化させた瀧村隆一の国家論へとつながる一連の地味な営為も、マルクスがやり残した意志論、国家論の空白を埋めようとする貴重な営みとして、当時は彼らの発行する粗末な紙の同人誌まで取り寄せてフォローしたものでした。  したがって、初めて吉本さんの『言語にとって美とはなにか』を読んだときも、彼が何をやろうとしているか、そこにどんな意味があるかは、すぐに理解できました。そして、彼が具体的な日本語表現に関しては、三浦つとむの上述の著書から決定的な示唆を受けて自身の原理を構成したこと、全体の論理的な構成、展開の仕方に関しては『資本論』の記述の仕方を幻想領域に換骨奪胎して再構成したことが、すぐに理解できました。 難解だとされる「自己表出」、「指示表出」 など独自の概念も資本論の抽象力が商品の分析で見出した「価値」と「使用価値」の概念を、三浦つとむの「主体的表現」、「客体的概念」を媒介に換骨奪胎したものと見れば、少なくとも直観的にはすぐに理解できるように思われました。  当時たしか『思想の科学』誌に掲載された平田某だったかと記憶する批評家の文章には、「読者の中には吉本のこの自己表出と指示表出という概念を見て安易に資本論の価値と使用価値の概念を連想する者もあろうが、まるでそんなことは、ど素人の見当違いに過ぎず、吉本とは縁もゆかりもない」と断じて、これから読む読者に対して居丈高に、そういう素直な読み方を禁じるような書き方をしているのを、首を傾げながら読んだ記憶があります。  私にとって、吉本さんが資本論の論理を換骨奪胎して言語表現の普遍性がある原理的な理論を作ろうとしていることは火を見るより明らかなことだったし、おかしなことを言う批評家もあるものだなと思ったのです。  事実、遥かのちの或るインタビュー記事で、吉本さんはこの著作の概念設定や論理展開は資本論の商品の分析から直接示唆されて創ってきたものだと明言しています。  『言語にとって美とはなにか』はマルクスやマルクス主義者の文献を読んでも判然としなかった、いわゆる「下部構造が上部構造を規定する」という史的唯物論のドグマに対して、ヘーゲルの影響が強く残る初期マルクスの疎外論を拡張して、人間の観念の作る世界に、下部構造とは相対的に独立した、固有の構造と法則性があることを、具体的な日本語の表現の分析を通して解き明かし、そこから導くことのできる幾つかの基本的な法則性から、従来は批評家による恣意的な作品の選択を繋いだだけであった文学史の具体的な作品表現における転移を、自己表出の観点から一貫した方法で具体的に解き明かしました。  だからそれは単なる「もう一つの文学史」などではなく、少なくとも私にとっては、この世界を解読する(マルクスの資本論と併せて一つの)マスターキーとも言えるほどの意味合いを持つ著作でした。  そして、吉本さん自身がそう考え、そうした志と自負を持って、たゆみない努力を続けていることは、続く『共同幻想論』と、自身の表現拠点として作り出した同人誌『試行』に連載する『心的現象論』によって、はっきりと誰の目にも明らかになりました。  少し彼の成熟期の著作に踏み込むことになりましたが、もとに戻して、こうした吉本さんの思想家としてのたたずまいが、周囲のあらゆる物書き、自称「思想家」、「批評家」、「文学者」、「知識人」、「有識者」、「文化人」、「専門家」、「研究者」等々から隔絶し、類例のないものである、と一介の若造にまさに的をまっすぐに射抜くように直観させ、確信させたのは、いったい彼の何であったのか、いまの目で振り返ってみましょう。  それは言葉にすれば、拍子抜けするほど簡単です。  今私が知っている言葉で言えば、それは「知」と「非知」との価値転倒、あるいはその分離、対立自体を無化してしまう、空前絶後の文字通りラディカル (根底的、徹底的で、過激) な思想だと言うことができます。  言葉で言うのは実に簡単です。しかし、ごく普通の生活者が生涯使わないかも知れない、そんな抽象的な言葉を使って、日々の暮らしにとってはいわば余計なことを考えること自体が、既に「非知」の世界を離れて「知」の世界へ足を踏み入れていることですから、そういう立場で「非知」と「知」の転倒を語ることは、自己矛盾(自己否定)にほかなりません。  概念として、言葉として、自己矛盾(自己否定)を語ることはできても、自己矛盾(自己否定)を生きる、ということができるでしょうか?  私には、吉本さんの生涯は、最初から最後まで、この問いに貫かれ、この問いに答え続けるようなものだった、と考えています。彼が思春期になって、見よう見まねで書き始めた拙い詩や、今読んでも決して幼くはない、10代の、日々の思考の断片を収めた『初期ノート』には、既にそうした思想の核心と基本的な骨格が表現されています。  入院中にこれを一気に書いている私の手元には彼の著書は一冊もないので、彼の昔の著作については、ほとんど半世紀ほど前に読んだ朧げな記憶に依るほかはないので、かなり正確さを欠くことになるかも知れませんが、吉本さんがそこで書いているのは、「上昇と下降」という人間の観念のありようです。  私たちは幼い頃、両親や兄弟姉妹など肉親に囲まれ、彼らとの関係の中で過不足なく生きて、多少のずれがあっても、そうした関係の中で処理しています。しかし、次第に肉親以外の人にも接触するようになり、学校の友人や教師と接し、書物を読み、次第に自我が目覚めて、親との関係の世界とは異なる、より広い世界、他者と、実際的にも精神的にも関わっていくことになります。  このとき、自らもまた、たとえばもっとも近しい存在である母親との関係の中にある自身を拒否して、そこからより遠い対象、例えば同じ年頃の友人たちや、学校の教師や私塾の教師といった人たちへと向かいます。  こうした実際の関係性の広がりとそれに伴って精神的な関わり、観念の対象を自分からより遠い対象へと広げていこうとすることは、人間の生理と社会的なありように根ざす「自然過程」、つまり意識しようがすまいが、放っておけば誰もが多かれ少なかれそうなっていく、というプロセスで、とくにそこに何か普遍的な価値なり意味なりがあるわけではありません。  吉本さんは、このように人間の観念がその対象を母親など身近な肉親から、少し離れた友人や教師へ、さらにより遠い他者、究極的には書物の世界の見知らぬ著者のような対象へと広げていくことを、「遠隔化」と呼んで、人間の観念にとっての「自然過程」だとみなしていました。  この観念の遠隔化の過程で、私たちは自身にとって近しい対象を次々に否定していくことになります。それまで関係のすべてであった親にある種の違和感を覚え、抗い、うちの親はダサいなどと思い、悩みがあっても親に頼ったり相談するよりは、親しい友人や教師に打ち明ける方がマシだ、と考えます。それが実際の年齢で言えは、思春期にあたり、親の知らない書物の世界に触れて親の無知を侮るような気持ちが芽生えたり、性に目覚めてますます親離れが加速する時期に重なるのが普通です。  そして、そうやって親の強い影響圏から離脱して思春期に出会う狭い範囲の友人や教師もまた、少し時を経れば、自分にとっては色褪せた存在に見えてきて、より遠い対象を求めていくでしょう。     このように観念が遠隔対象性をたどる過程は、たとえば母親との親密なスキンシップに始まり衣食住の日常性の全てにわたる具体的な現実との接触を、どんどん希薄化して、対象との精神的、観念的な関わりだけが肥大していく過程でもあります。親の生活圏、その精神的な影響圏から離脱して関わっていく友人や教師たちとは、もはや衣食住を日常的に共にするわけではなく、彼らとの関係性の核心は、生活圏を離れた観念の世界にこそあるでしょう。  そしてさらに観念が遠隔の対象へ、見知らぬ他者へ、書物の世界へと離脱していけば、そこにあるのはもはや自分の肉体が生きる現実の具体的な日常世界の色も匂いも消えた言葉だけの世界、いわば極度に空気の希薄な、観念だけの抽象世界に行き着くでしょう。  これを、高い山の麓から、極度に空気の薄い山頂まで登っていく登山に喩えるなら、観念の「上昇過程」とみなすことができるでしょう。それは、観念の、生活からの上昇的な離脱であり、観念が具体的、個別的なものをより抽象度の高い観念に純化し、高度化していく過程にほかなりません。  その過程で人はある意味で両親を裏切り、否定し、自分を育ててくれた家庭をとび出し、「非知」の日常圏を離脱して、高度な教育を受けて非日常的な言葉を操るようになり、もう親や身近な人たちには分からない「知」の世界の住人になっていくわけです。  そこには自身とのあいだにも、親との間にも様々な葛藤があり、裏切っていくことへの後ろめたさもあります。  この知的な「上昇」を「自然過程」として、それ自体が別段価値を生み出すようなものでもなければ、普遍的に意味づけられるようなものでもない、としたのが吉本さんの独特なところです。普通はこういう知的な「上昇」をそれ自体、「価値」である、あるいは「価値」に近づくことだと考えます。  一所懸命努力を重ねて学び、知識を増やし、高度な概念、抽象度の高い言葉を自在に操作できるようになっていくことを、「価値」に近づくことだと考えます。だから、学校で学んでどんどん視野を広げ、高度なことを身につけていくほどに両親はわが子を褒め、誇らしく思い、励ますでしょうし、教師たちも高く評価するでしょう。  しかし、吉本さんはそれは「自然過程」に過ぎない、と言います。ほっておいたら、そうなっていく、というだけの意味しかない、とにべもない。いやらそれどころか、そうして知的に「上昇」していくことは、「価値に近づくどころか、かえって「価値」から遠ざかることなんだ、と言います。  じゃそこから遠ざかるというその「価値」はどこにどんなものとしてあるのか。それは彼なり彼女なりが、振り捨て、いま離脱してきた身の回りの日常世界なのですね。普通はそこに「価値」なんかない、それこそ動物生と変わらない、ただ生きて働いて日々の糧を得て、生きるために働いているのか、働くために生きているのか、わからないような毎日です。吉本さんはそういう生き方にこそ「価値」があり、それが人間にとって本来的な生き方なのだ、と言います。そして、それ以外の生き方というのは、多かれ少なかれ、その本来的な生き方からの逸脱にすぎない、と。  これは私などが思ってもみなかった価値転倒で、深い衝撃を受けました。  私も親の庇護下で人並みの教育を受け、またその過程で人並みのささやかな努力もして、受験競争などというものにも、一定の疑問は覚えながらも、将来のためと考えて結局は積極的に取り組んで、大学で学ぶ機会を掴み、入学後は長い受験勉強時代のブランクを埋めようと、この世界を知的に理解するための、ありとあらゆる分野の本を読み漁って、それなりに自分の頭で考える方法や言葉を手に入れました。   そして、そんなふうにいわば教養を身につけ、抽象的な言葉を操って世界を読み解く力を手に入れることが「価値」であり、またより高い「価値」に近づくことだと考えてきたと思います。  しかし、十代の吉本さんは、それはちっとも「価値」に近づくことなんかじゃない、単にほっておけばそうなる、という自然過程にすぎず、しかもそれは人間の本来的な生き方からの逸脱だ、と言うのです。  この思想に接したときの衝撃を人に伝えることはとても難しいと思います。  それは単に驚くほど新鮮な考え方に触れたとか、価値転倒の発想を面白く思ったとか、物言わぬ大衆の生を意味づける思想として高く評価するとか、そんなことではなかったのです。  彼の言葉は、10歳くらいの年頃から成人しようという年齢にいたるまで、私がそれなりに精一杯努力して獲得してきたもの、私が「価値」だと考えてきたものを、まったく無価値なばかりか、そんな生き方は人間として本来的な生き方からの逸脱に過ぎない、と見るも無惨に否定し去り、打ち砕くものでした。  それは直ちにあのインドで遭遇した無数の無為の人たちの姿につながるところがありました。私はそれまでの人生のことごとく、とりわけ自分の最良最善の部分を完膚なきまで否定されたような衝撃を受けたのです。  吉本さんの思想にはその先があります。  では、「価値」はどこにあるのか。知的な「上昇」に価値などないとすれば、どこに向かうことに価値があるのか。  吉本さんは、「下降」する過程にこそ「価値」があると言います。「価値」は「非知」に生きる人々の、人間の本来的な生き方から逸脱しない生き方のうちにあるのだから、もしも観念の過程が価値を持ちうるとすれば、その価値のほうへ近づき、下降していくことによるほかはないでしょう。  これをのちに吉本さんは、親鸞の言う「往相」、「還相」という言葉になぞらえて、「行き道の思想」、「帰り道の思想」と易しく言い換えて語っていたかと思いますが、既に16-17歳頃に彼の中にしっかりと根付いて、生涯生き続けた吉本思想の核心をなすものだと思います。  余談ですが、東京工大で彼の後輩だったらしい文芸評論家の奥野健男は、若い頃の吉本さんとよくこの「上昇」「下降」について議論して大きな影響を受け、この考え方の枠組みを太宰治の思想と人生を読み解く方法として使い、高く評価された彼の代表作『太宰治論』を書き上げました。  あれを読むと、吉本さんの「上昇」「下降」の弁証法が、観念の辿る運命を言い当てたものであると同時に、人生如何に生くべきかという人間にとっての根源的な倫理を問うものであったことが、太宰というギリギリの人生を生きた稀有の作家を読み解く中で、少し通俗的な解釈にはなっていますが、或る啓示のように伝わってきます。  吉本さんは、人が様々な知識に触れて、いわば「余計なこと」を考えるようになり、日々の経験から得られるもの一切をまた日々の生活の中に返して、自身の生活思想を深化していく、人間としての本来的な生き方を逸脱して、日常生活の世界から観念的に離脱し、知的に「上昇」していくことは、単なる「自然過程」であり、そこになんら「価値」はない、と考えています。  しかし、そんな人としての本来の生き方から逸脱したあり方が、もし許されるとすれば、「上昇」の果てに到達した場所から、反転、再び自身が離脱してきた日常の世界へと下降し、その世界を自身の思想のうちに「繰り込む」こと以外にはあり得ない、と。  そして、思想とか知の世界に、何か意味とか価値とか言われるものがあるとすれば、そのような「非知」の世界への「下降」の過程にしかあり得ないのだ、と。  これは私などが漠然と考えできた思想だの知的な営みだのといったものについての、さらには日常生活についての、人生そのものについての考え方を、根底からひっくり返してしまうほどの、いわば致命的な衝撃を私に与えました。  「下降」してどこへ行くのか。それについても晩年、彼にとって生涯にわたる思想の核心であったこの問題に、十代から彼が馴染んできた親鸞を論じる中で易しい言葉で語っています。  それはこれほど腑に落ちる光景はないほど自然なイメージで、思想は自身がかつて離脱してきた日常世界へ静かに降り立つだけなのです。  帰り道は、自分がそれまで辿ってきた往路のすべてを、どんな些細なことをも落穂を拾うように拾いながら包括して行く、修羅の道かも知れないけれど、その果てに目指す場所は、ただ今日を懸命に生き、今日の知恵を明日の暮らしに返して生きる誰もが多かれ少なかれそういう日々を過ごしている、日常世界なのです。  ただ、そこへ帰り道の旅を終えて着地し得た思想は、彼がそこから離脱する以前の、あるがままの生活者のありようとは違っているでしょう。  こうした「上昇」と「下降」で描かれる吉本さんの初期から晩年までを一貫する思想的な核心を、いまの私の知る別の言葉におき直せば、「非知」の世界からの離脱による「知」の往路をたどる自然過程としての「上昇」と、反転して「知」の世界から一切を包括しながら、意識的に「下降」して還路を辿り、再び、静かに「非知」の世界に着地する、ということになるでしょう。  吉本さんが早くも十代のうちにこうした生涯を貫く思想の核心を形作るにいたったのは、誰もが指摘してきたように、彼が生きた思春期、青年期のありようを決した戦争の影によるでしょう。  当然のように、実際的な役に立つ化学分野の技術者として生きることを夢見ながら、同時に宮沢賢治に憧れ、中原中也や立原道造や高村光太郎を愛読して、一人密かに膨大な詩稿を書きためていた文学青年でもあった吉本さんにとって、そうした「余計なこと」を考える自身のありようが、人にとって本来的なありようからの逸脱ではないか、という自問は、国家存亡の危機に実際的に役立つことのみが求められ、その果てに「役立つ命」を躊躇なく差し出すことを至上の価値とする国家意志が友人たちをはじめ、周囲の親しい人たちの隅々まで行き渡っている中で、嫌でも胸の内で激しい葛藤と共に高まらざるを得なかったでしょう。  まして、古代から継承された「くに」の本質を「国家」に過不足なく重ねた天皇制国家によるそのような国家意志が「役立つ命」と引き換えに指し示すのが、彼が愛して止まない家族やかけがえのない友人達の、ささやかな夕餉のひとときの語らいや、罪のない日々の諍いや、呑気な息子の鼻歌や、遠い憧れの少女であるとき、これに抗うことは、今の私たちの想像を絶するほど至難だったに違いありません。  まだ十代だった彼が、いわばこの非常時に余計なことを考える軟弱な文学青年としての、彼の中のもう一人の自分を救抜するために、必死の思いで編み出した論理が、この「上昇」と「下降」の論理だったのではないか、と思います。  それは論理であると同時に、彼自身の命、生きてあることのありよう、存在の根拠であり、核心的な倫理でもあったのではないでしょうか。  そして、私が彼の言葉に激しい衝撃を受けたのも、ただその論理に惹かれたといったことではなく、私自身がずっと渇望してきたもの、あの、なぜ死なないのか、お前はなぜ生きるのか、そして人はなぜ生きることができるのか、という自問、人それぞれの恣意的な「生きがい」などではない、普遍的な意味を、超越的なものを廃しながら問う自問と響き合うものを彼の思想の核心に見出したからであっだだろう、と今では考えることができます。 ●死を選んだ友人のこと  何か書いたものを持ってこい、と期限を切られて、卒業論文さえ必要なかった自分には、人に読んでもらえるようなものは何も思いつけませんでした。  仕方がない、今から書くしかない、そう思ったら、多分二、三週間くらいは与えられたとは思いますが、自分なりによく馴染んできたテーマ以外には書けるはずもなく、それは私にとって、吉本さんの思想以外にはありませんでした。  吉本さんと言っても、当時刊行されていた唯一の主著『言語にとって美とは何か』は、読んで自分なりによく理解できた、腑に落ちたとは思ったけれど、その著作の意義は誰よりも吉本さん自身が一番よく知っていて、もともと広い思想的なベースもなく、ただ好きで恣意的に読んできただけの私が書けば、単に吉本さんが語る自著の意味づけをなぞるだけに終わるだろうことは明らかでした。  結局、私は彼がまだ自身の思想のごく初期の形成過程にあって、それを生きながら、その独特のありようにまだ十分には自覚的ではなかった『初期ノート』の世界に、彼の思想の最良の部分を見出し、世に蔓延る凡百の似非知識人、文化人たちとの決定的な違いを出来るだけはっきりと取り出してみたい、と考え、改めて同書を読み返して、ほとんど一気に書き上げました。  今思えば、そうとうひどい書き殴りで、しかも吉本さんの思想の本質を際立たせるために、私が終始頭に思い浮かべながらぶった斬っていたのは、名前こそ誰と指定はしなかったものの、数日後にはそれを提出して読ませなくてはならない審査員であるシンクタンクの代表取締役を務める、よく知られた評論家と社会学者、それに彼らのお仲間たちでしたから、もう破れかぶれの八つ当たりみたいなものでした。  もともと友人の推薦もあり、ほかに候補もいなかったようだし、出来レースだったのでしょう。  吉本さんの思想の原型と私が考えたことについて書いたその文章を提出して、しばらくのちに、面接ということで、当時は河原町御池角の金融機関のビルにあったシンクタンクの応接室へ行くと、初対面の二人が待っていました。  私は彼らとそのお仲間を、その文章で、ニセモノ扱いしてクソミソにこき下ろした気でいたから、大変居心地が悪かった(笑)。  書き終えたのは徹夜したその日の明け方で、その時は実にサッパリした気分で、これで相手が、こいつは我々にケンカをふっかけるつもりか、と気づいて不愉快だと思えば落とすだろうが、それでいい、と考えて出掛けて行ったのです。  しかし、内心ハリネズミのように武装していた私とは違い、既に若くして功成り名遂げて中年の域に達した彼らは、ゆとりの表情で私を迎え、一目でシャイな性格のわかる評論家の方が、机の上に置かれた私の手書き原稿を指して、そこまで何か会話してきた続きででもあるかのように、開口一番、「しかし、筆は立つねえ」と言ったのでした。  いま一人は、その場ではなかったと思いますが、あとで、私の原稿を当時彼が時々書いていた『思想の科学』かなにかを紹介するから、ちょっと紋切り型のところを直して、などと言いました。  むろん、そんな水準にも全く達しない代物であることは自分で一番よくわかっていたので、そんな話はそれきりになり、原稿は永久に御蔵入りになりました。  要は、彼らは中身を私の思想として読むよりも、商品としてわずかなりと値がつくかどうか、という観点から評価したわけです。  しかし、そのおかげで、私は曲がりなりにもサラリーマンの端くれになり、生まれて初めて定期的な収入を得てささやかな生活の基盤を作ることができました。 すでに私は三十歳になっていました。 この「入社試験」の課題作成には、私にいまも悔いが残る、友人の誘いを断った苦い思い出が付き纏っています。 それは、提出期限前夜、徹夜でノリに乗って原稿を書いている時にかかってきた、大学の教養部時代の級友からの一本の電話でした。  糸が切れた凧みたいになっていた私とは違い、理学部ないし大学院を出た旧友たちは、すでにそれぞれ勤務先で多くは技術者として実績を積み、みな将来を嘱望される存在になっていたかと思います。 みなそれぞれ全国に散らばってもいるし、多忙でもあり、同窓会などを始めたのは50代も過ぎるころで、当時はごく親しい友人以外には、個別にもほとんど会うことがないまま、卒業後七、八年を過ごしていたと思います。 それがどういうわけか、よりによって私にとって生涯の特異点とも言えるあの前夜、何年かぶりの旧友からの電話で呼び出されたのです。電話をくれたのは、まだ比較的会う機会があった、当時確かまだ京都に住んでいたFで、彼の多分高校時代からの一番親しくしていた友で、勤務地が関東だったか東北だったか、普段会えない遠隔地にいたKが京都に出てきて、今誰それと誰それも、誰それの下宿に集まっているから、すぐ来てくれ、というのです。 私もすぐにでも行きたかったけれど、すでに夕食も終えて、自室にこもり、ねじり鉢巻、徹夜覚悟で原稿の仕上げにかかっていて、当時はまだパソコンはおろかワープロ専用機も持たず、全て原稿用紙を手書きで埋めていく作業をぶっつけ本番でやっていました。 私は下書きができず、資料の準備や読み込みには時間をかけますが、書くのはいつも一気にぶっつけ本番で書きます。証拠が必要なら、確認のために資料を見返すことはあっても、基本的にはいま書いている時の勢いが全てで、私の場合は、テニヲハを直すことはあっても、下書きをしたからと言って中身がよくなる、ということはまずありません。 だから、中断すればおしまい。私はあのときの就活は諦めなくてはならなかったでしょう。  私は随分迷いました。旧友たちは、私から事情を聞いても、なんやそんなもん、ほっとけや、という感じで、私自身も、よほど何もかも投げ捨てて行こうか、と電話を切ってからも、繰り返し思いました。  しかし、私は行きませんでした。何や、と古い級友からはなじられる感じになって、嫌な後味を残したけれど、はっきりと自ら選んだことでした。それは私が自立して家族と「普通の暮らし」ができるようになるための、最初で最後の機会だったでしょう。  大学をドロップアウトしてから7、8年、こんな暮らしはまともじゃない、と思いながら、海外で放浪したり、臨時職を転々としながら、ずっと糸が切れた凧のように生きてきたわけです。少なくとも、生活者としては浮草のように水の面を漂うだけで、どこにも根を下ろすことができませんでした。    そんな自分を支えたのは共に働きながら二人の家庭を支えてくれたパートナーと、どんな日も欠かさず書いていた拙い創作の真似事でした。  しかし、どんなに自分には書くことしかない、と思っても、私は自分には確かな「根拠」がない、という根幹的な思いを免れることができなかったのです。  京都へ何年かぶりに出てきた旧友は、大学に入学したばかりのころに親しくなった数人のグループの中の一人でした。彼には他にもっと親しい友人がいたし、私にも彼よりは親しい数人の友人がいて、互いの距離感は微妙でした。  しかし、彼には私が親しかった他の友人たちにはない、特異なところがありました。みな同じ理学部に入ってきて、物理や化学のような理系の研究者になりたいと考えている、多くは京都や大阪の進学校から来た秀才たちでしたから、ある意味で似たところがあったと思います。理系の勉強が第一だし、得意でもある(私を例外として)けれど、工学部の学生などとは対照的に、なぜ、という問いが大好きで、同じ方程式を見ても、工学部の連中はそれを使うことしか考えず、われわれよりずっと早く計算して答を導くスキルを身につけています。われわれ理学部の学生は、その方程式がなぜ成り立つのか、どういう意味を持つのか、問わずには気持が悪くて仕方がないのです。私のように数学ができない者でも、解析学の基礎として叩き込まれるε-δ(連続性の厳密な証明に関わる方法) の問題を解くのは好きだったし、密かに得意だと思ってさえいました。  しかし、理数系以外の、文学、芸術、人文系、社会科学系の領域に関しては、ごく少数の例外的な友人を除けば、当時ありふれていたいわゆる進歩的文化人たちの、政治的にはリベラルな思想あるいは気分にうっすら染まって、高校時代には読まなかったマルクスなどの著作にも触れ始めて、社会的な意識を開こうとしているところだったと思います。  そんななかで、はなから本業の理数系のトレーニングを度外視して、授業さえサボって下宿にこもり、今思えばどうかと思うような読書案内を頼りに、一人でなにもかも掻き込もうとしていた私は、クラスの中では、間違って理学部などにきてしまった文系人間のように見えたかもしれません。その実、文系などと言えるような視野も蓄積も皆無で、ただ焦ってなんでも貪欲に掻き込んでいただけだったのですが。  さきの友人Kは、私のより親しかった友人たちのように政治的にリベラルな気分や考え方を共有しているようには見えませんでした。というより、彼は少なくとも、政治的、イデオロギー的なその種の話を私とは一度も交わそうとしなかったし、あるいは注意深く避けていたのかもしれません。私が一方的に話すことはあったに違いないのですが、いつも彼は多少シニカルな表情を浮かべて聴いていて、こちらが彼の意見を聞いても、まともに答える風ではなく、冗談のようにしてしまって、はぐらかされてしまうことが多かったように思います。  本当のところ彼がどう思っていたかは、わからないけれど、私には彼がそうした話題に無知だとか、何も考えを持たないのだとはどうしても思えなかったし、おそらく彼の方がずっと私よりも大人だったのだろうと思います。  彼はいつも仲間たちの間では天性のエンターテイナーで、コンパとあれば皆出席、宴会の欠かせない盛り上げ役で、一人一人の前にデンとアグラをかいて酒を勧め、おまえこうやろ!と、ひとりひとりの心に食い込んでくるようなシャープな言葉をなげかけ、こちらが応じればたちまち破顔一笑、冗談にしてしまって、彼がほんとうはどう考えているのかはぐらかされてしまう。真っ先に酔っ払う風情で春歌を歌い、座が盛り上がればいつか彼は皆の中に埋もれて、片隅で一人呑んでいたり、親しい友人とだけ話し込んだりしてその存在が消えてしまうのでした。    そんなエンターテイナーだった彼の最も特徴的な印象は、「暗さ」だったと言えば意外に思われるでしょうか。しかし、それは多分彼を知る級友たちならみな同意するに違いない、紛れもない彼固有の印象でした。小柄な体と顔に不釣り合いなほど大きく、知性に満ちた鋭利な光を見せる目は、しかしたとえようもなく暗かったのです。  私はいまにいたるまで、彼の暗さがどこからやってくるものだったのか、わからないままです。私が大学のすぐそばにあった彼の下宿を何度か訪ねて喋ったときにも、中身はまるでおぼえてはいないけれど、彼のその暗さにある種の親しさと強い魅力を感じていたことは確かでした。私は根っからの楽天家なのに、若い頃は完全に自身を誤解して、自分は暗いと思い込んでいたので、彼に惹かれたのは対照的なものに惹かれたのだといまならわかります。  彼がもし私とある時期、ほかの友人たちとの関係とは少し違った親近性を感じてくれていたとすれば、それは彼のこの「暗さ」を通じての逆説的な近しさ以外には考えられません。きっと彼は、私の底なしの楽天性に苦笑しながら、ある意味でそんなものがいまだにこの世界にあり得ることをささやかな救いと感じていてくれたのではないか、と今は考えることがあります。私はと言えば、彼ともっと大事な話ができるはずだ、しなければならない、と感じていました。  しかし、どこから何を手がかりにそんな場所へ行けるのか、私には見当もつかなかったのです。彼の方は私以上に慎重だったと思います。暗い目で見返しながら、さあ今か、という瞬間には、いつも哄笑しながら身を翻していました。私は彼の中に、ほかの友人たちにはない、私などの手に負えるはずもないものを垣間見ていたように思います。  彼にはどこか怖いところがある。攻撃的、能動的な怖さではなく、どこまでも退いていくような、受動的な怖さ。彼にはヘタに触れれば一瞬で壊れてしまう繊細なガラス細工のように、ひどく危ないところがある、とずっと感じていました。  だからあるとき、あれは卒業して何年後だったか、珍しく京都で級友が集まったとき、私も広島から出てきて参加し、久しぶりに会った彼が、たしかもう社会人として専門的な仕事に従事していたはずですが、少しも変わっていないことに、むしろ驚き、酒の席では話す機会もなかったのに、帰りに彼を呼び止めて、直接一言二言声をかけたのを記憶しています。その時に自分が何を言ったかは覚えていないけれど、何を言おうとしたかは、鮮明におぼえています。  それは「死ぬなよ」ということでした。  無論、私は、彼が現実的にそんなことを考えているなどと思っていたわけではありません。彼とは何年も会っていなかったし、彼が今どんな仕事をして、どんな生活を送っているのか、何一つ知らなかったのです。  多分私が彼に直接会ったのは、あの時が最後だったでしょう。  彼が京都へきて、私があの晩、誘いを断った日から、そう遠くはないある日、私は共通の友人を介して、彼の突然の訃報を聞くことになりました。  橋桁かどこかにぶら下げたロープで自ら首を吊っての自死でした。奥さんと幼い子供が残されたと聞きました。  彼は地球物理学を専攻し、卒業後は知識が活かせる公団か何かの研究所で、海洋学あるいは船舶事故と波の力学に関する研究に従事して将来を嘱望されるような成果をあげていたそうです。しかし、結婚前夜に突然職を辞して大学院に戻り、研究をやり直していたようなことも遠い噂に聞いたことがありました。  そのときも、危ないな、と感じたことを覚えています。  彼の自死を知って、私はそのころには新しい職場に馴染んでもいたけれど、あの夜、彼のいる下宿に駆けつけなかった自分を悔やむほかありませんでした。駆けつけたからどう、ということなどあろうはずもないのですが、私の中では生涯の悔いとして尾を曳く後ろめたさのような感覚として、いまも生々しい傷跡のように残っています。 ●サラリーマン生活~知の遊戯の世界と「書く」こと  シンクタンクでの主任研究員としての初仕事は、同社を紹介してくれた友人でもある同僚が主担当を務める、総合研究開発機構(NIRA)が広く全国のシンクタンクに委託ないし助成金をばら撒いて進めていた、21世紀の日本社会を予測し、政策提言を行う、という趣旨の「21世紀プロジェクト」と言われる事業でした。  所属するシンクタンクは、京都の信用金庫の理事長が、ローカルな金融機関である信用金庫をはみ出す中央志向ないしはグローバル志向を持つ人で、業務上はその潜在願望が果たせない分、全国区の知識人、文化人を集めた知的サロンを傘下に作って、金庫の内外に文化的な匂いを漂わせたいといった願望を、ローカルな金融機関だからこそのワンマン経営者ゆえに、個人の趣味を強引に形にしてしまったような組織で、金庫の支店長だった人物が金庫番の代表取締役として実務を仕切ってはいたものの、日常的な活動は文化人である先の二人に委ねられ、しかも彼らの本業は別にあるから、彼らがオフィスに顔を出すのは月に一度もないほどでした。  従って普段は我々研究員が割り当てられた受託事業を各自の裁量でこなしていれば、あとは好きなように過ごせる自由な雰囲気がありました。  21世紀の日本のことなど考えたこともなかったし、自分の知ったこっちゃない、と思って、何の関心も持てなかったけれど、このプロジェクトの末端に参加する中で、僅かに現実の日本社会が直面している、あるいはしそうな様々な課題に視野が広がったことと、それまで嫌悪と侮蔑の対象でしかなかった文化人たちの幾人かと個別に、直接接触する機会があったから、否応なく彼らの著作の幾許かを読み、実際の社会を読み解く術の幾許かを学んだことは、その後引き続きこの仕事から生活の糧を得ていく上では役に立ちました。  所属のシンクタンクは文化専門という看板を掲げて、大阪万博に参加した文化人を核とする、関西文化人の知的サロンという趣きで、「全国区」の文化人の名を「株仲間」(小株主であると同時に、プロジェクトごとに知恵出しに協力を惜しまない、多彩な分野の文化人、有識者、研究者)に20-30人も並べていたし、所長はNIRAの初代理事長を務めたもと国土庁の大物次官と親しい間柄といった、著名な文化人ならではの独特のネットワークもあり、 NIRAの扱いも、ローカルなシンクタンクに対するものとはかなり違っていたようにみえました。  21世紀日本の文化状況を計量的手法で捉えるという、当時の私には冗談としか思えない「政策志向的研究」を率いて、私たち研究員を「指導」したディレクターは、『日本沈没』で全国に知られたSF作家小松左京、同プロジェクトに参加した株仲間の文化人には、所長川添、元所長加藤のほか、梅棹忠夫、米山俊直、林雄二郎らがいたと記憶しています。  私たち研究員は彼らが委員会と称するお気楽な食事会や酒のサロンで喋る思いつきに従って、あれこれの資料を調べ、時に個別の文化関連機関、諸施設を訪ねて計量的なデータを集め、整理、加工して、その趨勢を分析して、ある種の提言めいた報告書にまとめる作業をしました。  そんなことをしながら、内心はこんなことには何の意味もない、馬鹿馬鹿しいお遊びでしかない、と思っていました。  参加している文化人たちも、もとより本業はべつにあるので、ただ文化人どうしのお付き合いで出てきて、本業とはほとんど関係がないことに余技で付き合って、しばしちょっとした知的サロンの雰囲気に浸って、小遣いをもらって帰る、というだけのこと。あとは我々スタッフに任せれば良いわけです。  そのころは私はまだハリネズミのように全身の針を逆立てていたから、家に帰れば昼間の鬱憤をはらすように、彼ら文化人の言い草や発想を否定する論理を自分の言葉にしてノートにぎっしりと書き込んでいたものです。  そうしなければ、自分が汚れていくような気がしたからです。しかし、そんなことも虚しくなって、ほどなくやめてしまいました。次々に与えられる仕事は、労働集約型の仕事ばかりだから、しんどくはあったけれど、毎回目先の変わる新鮮さもあったので、移り気な私には向いているところもあったのでしょう。いつか仕事に泥み、職場にも泥んで、汚れていったのかもしれません。 ●小説を書くこと  こうして、私に残されたものは、それ以前から続けていた、小説らしきものを「書く」ことだけになりました。 私が小説らしいものを書き始めたのは二十歳になる少し前のことです。直接のきっかけになったのは、伊勢に住む祖母を訪ねた折に見せられた、敗戦後に自裁した叔父の遺書を読んだことだったと思います。  叔父のことは祖父母とも生きていたころから、いつも座敷の床の間に彼が防寒服のようなものを着て、軍刀を立てて持った腰から上の写真が軸にしてかかっていたし、それが亡くなった三男坊の叔父だということは、幼い頃から知っていました。しかし、この叔父のことは、誰もほとんど話そうとはせず、なんとなく触れるのを避けているようなところがあったように思います。  私もこの叔父についてはその軸の写真でしか知らなかったし、「戦争で死んだ」と自分で勝手に思い込んでいたのか、両親がさりげなくそんな言い方でスルーしていたのかもしれないが、特に関心を持つこともありませんでした。だから、祖父が私が叔父の死の事情を知ったのは大学に入った直後だったのではないかと思います。  すでに祖父は亡くなり、この伊勢北楠の家の主となった伯父が近くの石油コンビナートの吐き出す煤煙で喘息を患い、湯の山に家を建てて後妻とその後妻との間にできた息子と3人で引っ越してしまい、上の二人の息子たちは既に就職して家を出ていたから、田舎の広い農家の家に祖母一人が残されることになったのです。  私が大学の授業が始まるまでの休みを使って祖母を訪ねたのは、父に代わって祖母の様子伺いに行くといった意味合いがありました。祖母は百姓仕事をすると同時に、産婆として村の多くの子どもたちを取り上げてきた、丈夫な人でしたが、早くから腰が真っ二つに折れて、70代半ばを過ぎた頃にはますます体が折れ曲がって、歩くのがしんどそうでした。  私が行くと家は開けっぱなしで、テレビの大きな音が聞こえていましたが、いくら呼んでも居るはずの祖母は出てきません。仕方なく上がっていくと、テレビの前に座って祖母は大好きな三波春夫の歌を聴いていました。私がすぐそばまで行って声をかけると、驚いてこちらを見上げます。  おばあちゃん!という私をまじまじと見て、少し間をおいて、ようやく、「あれ! Sちゃんかな!」と言って、ようやく緊張がとけたように笑顔になりました。もう耳が遠くなっていて、近くでもかなり大きな声で話さないときこえないようでした。  その祖母と夕食を共にし、一晩泊まって、あれこれ話す中で、祖母が自然に話し始めたのが、叔父保のことでした。  祖母から聞いた話は、私に言いようのないほどの衝撃を与えました。  叔父は軍人で、陸軍の戦車隊に所属し、敗戦時には千葉の稲毛にあった戦車学校の教官を務める少尉でした。一発の銃弾も砲弾も敵に撃つことなく敗戦を迎え、3人兄弟の中で、一番先に郷里へ帰ってくることになった25歳の少尉は、「稲毛の海岸に戦車を埋めてきた。チャンスがあれば掘り出して戦う用意は出来ている。」などと言っていたそうです。まじりっけのない、純粋な軍国主義敎育を受けて育ってきた「天皇の赤子」だったのです。 口では勇ましいことを言っていたようですが、彼は敗戦と同時に生きる意味を見失い、死のうと決めて郷里へ帰ってきたのでしょう。毎日座敷机を前に座って、固い表紙のついた大判のノートに遺書を書き続け、仏壇の前に長く座って経を唱え、眠る時は傍に軍刀を置いて寝ていたそうです。 「起きとるときは床の間へ置いたきりやに、寝るときそんなものなんで要るやな」と祖母が笑うと、寝とるときやから、いつでも使えるように側に置いとくんじゃ、と言っていたそうです。  祖母もそんな彼の様子に不穏なものを感じてはいたようです。 彼が兄弟3人の中で最初に帰郷したとき、最初に言った言葉は、「生きて帰って済まん」だったそうです。「すまんことあるかさ!よう生きて帰ってくれたな」という祖母にも彼の表情はなお直立不動の姿勢で敬礼する軍人のように硬い表情のままだったそうです。彼は父親の百姓仕事を手伝いながら、両親に促されて職探しをしていたようです。  あるとき、警察官を募集に応じて出かけていき、早々に帰ってくると、「マッカーサーの指令で身長が××センチ以上でないとダメになったらしい」と、怒り心頭の様子だったそうです。「マッカーサーの指令じゃげな!」  見合いの話もあったそうです。遠縁にあたるうちの娘で、うちでつくったおはぎを持っていかせて、それとななく娘を見てくるように言い聞かせて近くの村にある相手の家に行かせたところ、前庭に出ていた娘の姿を垣間見ただけで帰ってきてしまったそうです。  「せっかく行ったのに、なんでちょっと話でもしてこんやな」と言っても、「おれに見合いなんか。からかいにいくようなもんじゃ」と笑っていたそうです。  まだ彼が中学生のころ、裕福な親戚から、祖父母に養子がほしいというという話があったそうです。7人兄弟の末弟だった祖父は戦前戦中はずっと地主の田畑で働く小作人をしていた貧しい百姓で、戦後の占領軍による農地改革でなんとか食っていけるだけの自分の田畑を持つことができるようになったのでした。  それでも三人の息子たちを養うのは大変で、周囲はほとんど小学校を出ておしまい、あるいはせいぜい地元の中学校に通わせてもらえば御の字で、百姓の息子にそれ以上の教育が必要だとは誰も考えなかった時代でした。  しかし、祖母は大変賢いひとで、これからの時代は敎育が人の価値を決めていくと考えていたらしく、3人すべてに中学校を出てからも学ぶ機会をあたえようと、祖父の百姓仕事では不足の息子たちの学資や生活費の備えをするために産婆を始めたようです。  それでも、そんな祖父母のことを、周囲の村人たちは、「あいつらは息子の敎育で家を潰す」と噂したそうです。  そんな窮状を知る、子供のない裕福な遠縁の者から、3人の息子たちのうちから、一人を養子に欲しいと申し出があったのです。ただし、その時の向こうがつけた条件が、「保は要らん。俊雄か稔かならもらう。」というものでした。  その理由はわかりません。それまで、その親戚と深い付き合いがあったわけでもなく、僅かな接点しかなかったので、3人の中で一人だけ排除される理由はだれにもわかりませんでした。この話を聞かされた息子たちのうち、上の二人は養子になることを拒み、あらかじめ排除された保は、「なんでわしはあかんのじゃ」と怒っていたそうです。  祖母はこれらの話をしたとき、保が帰省後に書き続けてきた遺書を見せてくれました。それは大判A3サイズの、しっかりとした綴じの、硬い薄茶色の表紙のついたノートでした。私たちが普通によく見るようなノートとは異なる特別仕立てのそれは、保がここに自分の思いのたけをすべてぶつけよう、とする意気込みを感じさせるものでした。   表紙には、やや大きな字で、「白蟻」と書かれていました。  ページを開くと、おそらく万年筆で書いた濃紺のインクの横書きの肉筆の文字が、上から下まで、ぎっしり詰まっていました。旧字体、旧仮名遣いで書かれた漢字の多い文字列は、黒々として見えました。とりわけ最初の数ページは、一気に書き殴ったようにそんな文字列でぎっしり満たされ、書き出しは丁寧に書かれていた文字がすぐに乱れて、心急くように書き殴った文字列へと変わるのがわかりました。   さらにページを開くと、彼が兵士仲間と共に撮った写真や、戦車の姿も見える野外演習らしい光景の写った写真を貼り付けたページもありました。  「あんた、読んでみるかな」と祖母は言い、私がぜひ、と言うと「もう誰もそんなもの読むもんはおらへんでな」と私に託してくれました。  私は幼い頃から、それまでほとんど毎年のように盆の前後には父や母と祖父母のところを訪れ、一晩、二晩泊まって、祖父の畑で取れるスイカをみんなでタライを囲んで食べたり、2人の年下の従弟と溜池で遊んだり、セミ採りや小川でのフナや泥鰌とりを楽しんでいました。それだけの時間をともにしていても、祖母からもほかの誰からも、保の話を聞くことはなかったのです。  しかし、この日の祖母は、堰を切ったように保のことを話してくれました。  「保が死んで半月経つ頃に、四国から保の同期の戦友だった人から保あてに手紙が届いてな。世の中がすっかり変わってしまって、我々には生きづらい世の中だが、これが受け入れざるを得ない現実であるなら、自分の方を変えていくしかあるまい。容易なことではないが、生き残った者の務めだと思って、お互い、この不愉快さに耐えて生きていこうではないか。そんなことが書いてあって、私はこの人は賢いな、と思たな。」と祖母は言いました。  しかしまた、夕食のときには、「俊雄と稔と保の三人兄弟の中では、保が一番面白い子やったな。しょっちゅう冗談ばっかり言うて。」と言いました。祖母の「面白い子」は。私にはほとんど「賢い子」と言っているように聞こえました。  「俊雄は生真面目な子やし、あんたのお父さんはガンパリ屋さんやったけど、保はいつも人を笑わせてばっかりいるような子やったな」  その保が帰省した敗戦の年の翌年十月には生後1年2ヶ月のわたしを抱いて、稔と私の母である萬が上海から引き揚げてきて、北楠の家に一家で居候することになりました。さらにその翌年、南方の戦線に出征したきり音沙汰がなく、戦死した可能性が高いと誰もが内心で危惧していた俊雄が、ひょっこり帰ってきたのです。目の前で手榴弾が爆破してアッと叫んで血だらけになって倒れ、気づくと前歯を全部失っていたが、命に別状なくビルマ戦線から生き延びて帰省したのでした。  帰省した俊雄を見て、保が発した言葉は 「何や、お前まで帰ってきたんか」でした。  「何を言うのやな。生きて帰ってくれて良かったやないかな」と祖母がたしなめると、保は、「これでもう俺は居らんでもええな」と言っていたそうです。そのときはみんな。また保が冗談を言ってるわ、と思っていたのです。  しかし、保はその歳が明けて二月、鉄道に飛び込んで自殺しました。  ノートとは別の紙に書かれた遺書には、葬式は無用、墓も無用、通夜には夜通しみなで酒を飲み、うまいものをくって騒ぐべし、など、数箇条の遺言が記されていましたが、一つも実行されたものはなかったようです。  私はたぶん保の遺体を見ています。  それは、深く掘られた穴の底に白い裸体でうずくまるように横たわっていました。  私は当時まだ二歳だったはずですが、なぜか地面を深く掘った穴の底にうずくまるように横たわる白い死体の印象を鮮明に記憶しています。周囲を囲むひとたちがいたことや、それが北楠の墓地の入口付近であったこともわかっていました。ただ、私はずっとその光景を保叔父の死と結びつけて考えたことがありませんでした。単に誰かが埋葬された光景の記憶として持っていただけだったのです。  祖母の話を聞いてからは、両親をはじめ、伯父や生前の保と接触のあった母方の叔父、叔母などにも話を聞く機会があり、どうやら私の見た光景が保と関わりがあるらしいことを知ったのでした。  私が聞いた人たちの話を総合すると、当時は村では土葬が行われていたこと、幼児の私を連れて埋葬に両親が立ち会うような機会は、あのころ保の死んだときしかなかったこと、保の遺体は北楠の墓場の入口近くの桜の下に埋葬され、一本の木の墓が立っていたが、のちに掘り返されて、先祖代々の墓に移され、合葬された、ということがわかりました。  そういえば、幼い頃、伯父や従弟と墓参りに行ったとき、伯父が先にある先祖代々の墓に参り、そのあとで、必ず「保っちゃんの墓にも参っとけ」と言って、細く、真新しい木が一本立つだけの、線香台もない地面に線香を置いて手を合わせるよう指示したのを覚えています。  祖母の話を聞き、保の遺書を読んだことが、私に保の生きた(そして自死した)世界を辿りなおすという、今考えれば自分には荷の重い作業を自ら負うことになりました。なぜそんなこだわりをもつようになったのかは、いまもうまく説明することはできそうにもありません。それ以前に母が若いころから文学好きで、自分でも小説らしいものを書いたりしていて、そんな母と「ずっと反抗期」みたいな反撥をしてきたにもかかわらず、そういう母が夢見る物書きとしてのイメージを反転させる形で、彼女とはまるで異なる物書きのありように自分をもっていこうとしていたのかもしれません。  ただ、自分は保の死にこだわっていると思っていたけれど、彼の死については、その遺書を読む限りむしろ分かりやすいと言ってよい印象をもっていたと思います。たぶん彼の死を小説して描くとしても、思春期から青年期にかけてそれ以外の世界に接する機会のなかった一人の純粋な軍国主義思想に冒された青年の死以上のものは、なにもそこに見いだすことはできなかったでしょう。    それよりも不可解なのは、彼が死のうと決めて帰郷し、毎日遺書を書き続けながら、両親と、また次々に帰還した兄たちと日常生活を送りながら、2年近くも生きていたことのほうなのです。  そのことに気づくと、この文章の冒頭に引いた、カミュの言葉に直ちに重なってしまうのを感じます。  彼は軍人になったにもかかわらず、一発の弾丸も撃つことなく、銃剣で敵とわたりあうこともなく、ただ戦車隊に属していくばくかの演習に参加し、最後は戦車学校の教官になって後輩を指導する立場で敗戦を迎え、いわば無為の時を過ごしただけで郷里へ帰還します。  ほかの考え方など目に触れ耳に入ることもない軍国主義教育一辺倒の教育を受け、「天皇の赤子」として御国に殉じる身と自覚して生きてきながら、肝心のその任務を果たすこともできず、いわば何もせず、何もできないまま、生きて郷里に帰還してきたわけです。  そんな彼がどうやってほかの誰にとってもいとも簡単な日常生活にすんなり着地する、ということができたでしょうか。彼は毎日ただ、あの問いを、「なぜ生きるのか」「なぜ死なないのか」という自問を反復していたのではないか、そう思えてくるのです。  保は私だ、とそのとき私には思えたのです。  書くことについて何の修練もない自分が、いきなり保の死あるいは生について一編の小説を書くということが困難なことは分かっていたけれど、毎晩とにかく机の上に置いた原稿用紙に何か書き付けるような形で、二十代から三十代の前半くらいまで、本番と修練を兼ねるような無謀なやり方で、幾度も挑戦しては挫折し、また書き出しては中断し、というふうなことを繰り返すうちに、自分にとって保の世界と、とにかく「書く」ということがひとつの習慣でもあり、日常生活を精神的に支える拠り所のようなものになっていたと思います。  そういう世界から自分をひきはがして、ごく普通の日常生活の現実を或る程度の実感を持って生きられるようになったのは、三十代の半ばになって長男が生まれ、続いて次男生まれてからのことだったと思います。保の世界は私の中で潜在化し、間歇的に噴き出してくることがあっても、持続することがなく、もうひとつの作品として仕上げたり、完結すべきものとはみなされず、ただ噴き出してくる折りに、その都度いくばくかの文字列を書き連ねるすぎない行為になっていきます。 ●生涯のおわりに  ここで唐突に「生涯のおわりに」という小見出しを置いたのですが(笑)、これは私の身体的な状況が望もうと望むまいとまさにいまそういう状態にあるからで、この文章を書き始めたのは、特発性間質性肺炎という今のところ治療法のない進行性の病に冒されたのが原因で、三度目の大学病院への入院を余儀なくされ、56日間の入院生活を送っていたときのことで、それを退院後にも書き継いできたわけです。  コロナの感染拡大があってから、私が入院していたような大病院の病棟管理も格段に厳しくなり、家族の面会、付き添いは一切お断り、必要なものを差し入れする際も、ガラス越しに顔をみることはできても、家族が病棟内に立ち入ることはできません。従って、容態が悪くなって臨終が近いとなっても、特別に主治医が認めない限り、原則として家族が見とることもできないことになっています。例外的に臨終の折に認められるとしても、配偶者一人とか、どうせそんなことになるでしょう。  そう考えると私のように毎度、今回が最後になるかもしれないな、と思わざるを得ない病の場合、入院すればもうそのまま家族の居る外の世界から切り離されて、二度とこの世では逢えなくなるかもしれない、と思うと入院すること自体がためらわれます。  今回も、定期検査に行って、即入院と言われたときは、一瞬拒否しようかと思い、返事をためらいました。しかし幸い部屋がいまなら空いているとか、外来でとなるとそれはそれで薬剤の投与などこれから直ちにかからなくてはならないし、その前に確認しなければならないこともあるし、大変だという医師の、即座の決断を求めるような言葉に急かされるようにして、入院を受け入れざるを得なかったのですが、あれでもしアクティブな炎症の急激な進行が抑えられず、そのまま死ぬことになったら、入院したこと自体を随分後悔しただろうと思います。  仮に入院によって、一カ月、二カ月延命できたとしても、そのまま家族にも会えずに集中治療室ででも死ぬことになるなら、入院時の状態でも短くても1,2週間は生きられたでしょうし、帰宅して家族に囲まれて死んで行くほうが良いと思ったでしょうし、いまでもそう思います。 だから入院中にもし容態が急変したら、無許可で病院を出てしまおうかといったことも考えていました。問題は最後は呼吸不全を起こすわけだから、きっと苦しいだろうし、それを緩和する手立てが医者を介さずに可能か、という点だけですが、それは調べてみると癌の末期患者の場合と同様の麻酔薬を使って、なんとかあまり苦しまずに逝く方法がなくはないようで、もうだめと判断される患者について、医師と相談の上でそうした措置をあらかじめとって対処しているケースもあることを知りました。 おそらく次の発作というのか、次にアクティブな炎症が起きれば、肺の酸素交換機能がもたないでしょうから、常時酸素ボンベにつながれるか、それでもだめで急性増悪をひきおこして短時日で1巻の終りになるか、といったところでしょう。そうすると、自宅で死にたいと本気で思うなら、そろそろあらかじめそうした措置ができるように主治医に相談して手を打っておかなければならない時期なのかもしれません。 「次」がいつくるか分からないことや、「次」もまだ或いは今回のように命拾いするかもしれない、「次」が起きても、必ず死ぬとは限らない、という不確定性が、希望的観測と相まって、そうしたいざという時のための具体的な行動をてきぱきととっていくことを、ぐずぐずと先延ばしにしているところがあることは事実で、医師のほうも、いまは継続中のステロイド療法を手順どおり進めることと、関連して服用してきた各種薬剤の副作用による肝臓・腎臓障害を抑えることに汲々としていて、そう遠い日のことではないだろう「次」にそなえて、じっくり主治医と向き合って話し合い、相談する、というタイミングを持てずにいます。下手をするとまた突然、即入院という事態になって自分の意志のどうにもならないところで成行きに身を任せてしまうようなことになりかねないので、そろそろ真剣に考えなくてはならないでしょう。  ただ、いまの日常生活は、いろいろと痛みや苦しみを抱えながらではあっても、自分なりに楽しみをみつけ、家族(伴侶)とほとんど24時間生活をともにし、彼女のつくってくれる美味しい食事を楽しみにし、自分の意志に反して強いられるようなことは何一つない日々で、幸せといえば私にとっては十分に幸せな日々で、この一日一日を平穏に生きることが今の私にとってのすべてであることは申すまでもありません。 私は吉本さんが語っていたような「非知」の世界に首尾よく着地することはとうていかなわず、若いころから今にいたるまで、いわば余計なことばかり考え、実際的な生活に役に立つこととはまるで縁のなさそうな本を読んだり雑文を書いたりといったことを間歇的に続けてきたわけで、そうした「知」の世界で徹底して生きることもできなかったし、「知」の世界と「非知」の世界の価値転倒を血肉化した吉本さんの希有な思想に共感を覚えながら、中途半端な生き方をしてきました。 しかし、生涯のおわりになって、もうそんなこともどうでもよく、こうしてただ生きていること、ふつうのひとが何か職業的なスキルや知識を身に着けてごく自然にその世界に日々生きてきたように、私は私なりのささやかな読み書きに最近は日向ぼっこの楽しみも加えて、そういう日々の何気ないありよう、ただ生きているというだけのそのありように、「なぜ生きるか」という最初の自問への答えのうちに既に自分が生きているのだろうな、と思うようになりました。それが私なりの「非知」への着地だったのかもしれません。 保が時代の制約の中を生きて、軍人として生きることしかできないものとして自己形成を遂げながら、一発の銃弾も撃たずに敗戦で帰郷し、両親のように百姓仕事をしたり、どこかへ就職して勤め人となって暮らしていく日常に回帰することもできなかったように、私もいまにいたるまで「非知」の世界にうまく着地する術をしらず、中途半端に余計なことを夢想しながら生きてきたけれど、本当はなにか実際的な仕事についてそこで必要な限りの知識やスキルを身に着け、それを全部その仕事の中へ返していくような生き方ができるなら、それが一番あるべき自然な人間の生き方だったのだろうな、と思います。 それは「知」と「非知」が乖離することのない世界で、私がパートナーなどを見ていて、ああ身近にそのモデルみたいな生き方をしている存在がいくらでもあったんだな、といまさらのように痛切に感じる、ごく普通の生活者の生き方であって、いまでは羨望の眼差しを持ってしか見られないけれども、自分にはどう逆立ちしても実現できない生き方なんだろうと思います。  この文章になにか結論があるわけでもないし、なにかを主張したくて書き始めたわけでもなく、ただたまたま長期の入院中に、自分を今の観点で振り返っておきたい、という気持ちが生じたときに発作的に書き始めて、書き継いできただけです。このへんで終わりに、あるいは中断ということにしましょう。  
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