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[追記2023.7.9]
さきごろ日経新聞で、経済学的な観点から、負担と恩恵の世代間アンバランス、いわゆる「世代間問題」に関して、小林慶一郎慶応大学教授が日本総合政策研究所の廣光俊昭の所論に言及しながら論じた文章を、ここに書いて来た「生きる意味」との関係で興味深く読みました。
小林によれば、地球温暖化、少子高齢化と人口減少、財政の持続性、原発の核廃棄物の最終処分など「現在世代がコストを払うと、現在世代は何ら利益を得られないが、将来世代が利益を得られる」タイプの政策課題というのがあって、これを「世代間問題」と呼び、そのジレンマをどう考えれば解決して行けるのか、といったことを、もともと財務省の官僚である廣光らが考えようとしてきたらしいのです。
利害が相反する世代間の問題を解決するには、両者に利害が共通するベース、異なる世代が共有できる価値観が見いだせればいいじゃないか、というわけで、彼は廣光が依拠あるいは紹介しているらしい、ニューヨーク大学教授サミュエル・シェフラーの「自分の死後における世界の存続こそ我々の大きな関心事」なのだという言葉を引いています。
シェフラーの考え方をもとに、小林は「人は、自分の死後間もなく世界が終わると知ったら、人生で達成する事の多くが無意味だと感じるだろう」と考えているので、「世界存続は、現在世代にも将来世代にも共有される価値」であるとし、「それを守る行為は、双方にとって互恵的」だとして、これを「公共的互恵性」と呼んでいます。
さらに彼はこれと「相互に強化しあう補助線」として「公共的承認」という概念を提唱し、これを思想として確立していることが先の問題解決に役立つと考えて、いくらか具体的な方向性にも踏み込んで提案しています。私は経済政策的な観点には関心がないので、興味を覚えたのは、小林依拠するシェフラーの、人が生きる意味に関する基本的な考え方の部分で、その先にはいまのところ関心がありません。
ここで「承認」という概念を小林が持ち出しているのは、コロンビア大学のアクセル・ホネット教授によるヘーゲル解釈によれば(小林が紹介してみせる限りでは)、人類の歴史は承認をめぐる闘争であり、国家も個人も、承認欲求を満たすために他者からの承認を求めて闘ってきたのだとヘーゲルが考えて来たということのようです。
ただ小林は、「他者による承認」は、それ自体に本源的な価値があるというより、その価値の根拠として、さらにだれかの承認を必要とするはずで、これをたどっていけば、無限の未来の将来世代からの承認にゆきつくだろう、と考え、結局のところ「個人の人生の目的はそもそも将来世代の直接間接の承認が期待できて初めて意味を持つ」というふうに、発端になったシェフラー教授の主張を読むことになっています。
あらためて言ってみれば小林によれば、「公共的承認」とは、現在世代が目指す価値の根拠は、無限の将来世代からの承認であるという思想であり、将来世代への尊重が彼等からの承認の価値を大きくするのだ、ということになります。
これは私たちが「生きる意味」を求めるならば、なかなか興味深い考え方だと感じました。
私は昨年末2カ月間の入院生活中に、治療法のない進行性の病による、全く突然の2度目の入院だったこともあって、今回が最後になるかもしれないな、とも考えたので、当座の書きなぐりではあったけれど、過去の自分にとっての印象的な場面を思い起こしながら、上にアップロードしてある「なぜ生きるか」という一文を書きました。
そんな自問にきちんとした自答を与えることが出来たわけではないけれど、少なくともそういう問いを二十歳前後からずっと自分に問いかけて来たのは、ただ私個人の主観的、恣意的な「生きがい」に過ぎないものを「生きる意味」として取り出したいからではなく、また信仰があるわけではないので、神や仏のような超越的なものを信じて「生きる意味」を根拠づけたいわけでもない、ということだけは明確でした。
そうではなくて、私はあくまでも普遍的な意味での「生きる意味」を求めて、そんな自問を繰り返していたように思います。
いや、そんな「普遍的な意味」なんてものがあるのか、ないのか、いまの世の中で知的、合理的なものの考え方をする人は、おそらく、そんなものはない、というほうに傾いているに違いないという気がします。
私も若いころは、人生で初めて出会い、影響を受けたいわゆる唯物論的な立場から、そんなものはない、それは単に文法が強いる問いの形式にすぎないので、中身の無い空疎な問いに過ぎないと考えたことがありました。しかし、それにもかかわらず、私の中でこの自問はずっと潜在し、居残り続けたのです。
小林が言うように、あるいはひょっとしたらヘーゲルがそう言っているのかもしれないけれど* 私たちはごく身近な人々、たとえば大切な家族だとか、恋人だとか、親友だとかいた人たちとの関わりの中で、「承認欲求」をもち、それが満たされることで、「生きる意味」を充足しているところがある、ということは実感できます。
ほかの誰にとって意味がなくても、私にとってあなたはかけがえのない人だよ、という思いを、たとえたった一人であっても、自分以外の誰かが真実感じていてくれるなら、それは必ず自分にはねかえり、自分の「生きる意味」を根拠づけるものとなっているに違いない、と思えます。
マルクスも資本論の中で述べていたように、ひとは他者という鏡を介してしか自身がなにものかを知ることはできず、ペテロはパウロを通してはじめて自身を知り、また自身を社会化することができるのであって、それが「関係の束」としての人間の本質的な実存様式なのだろうと思います。
そうすると、個人的には自分の生きる意味を根拠づけてくれた人がみな亡くなってしまうなら、現在的な関係性の中では根拠づけを失うわけですが、いったん「承認」されたという事実は残るし、その「承認」を与えた人自身が「生きる意味」としての根拠を持たなければそれも空しいわけだけれど、その人の「生きる意味」はまたその人を知る他者によって根拠づけられることになります。
そうやって辿って行けば、全人類につながり、また今後生れて来る将来世代のあらゆる人々につながっていくでしょう。それは小林が言うとおりで、私たちの「生きる意味」を支えている根拠は、無限の将来世代だというのは、その意味で理解できるように思います。
ただ、私はこれから生まれてくる将来世代だけではなく、既に死んで行った過去の世代のすべてがその時々に与えて来た「承認」が私たちの「生きる意味」につながっている、と考えるべきではないかと思います。
そうすると、例えば小林が危惧するように「自分の死後間もなく世界が終わると知ったら」という仮定が不幸にして現実になったとしても(たとえば全面核戦争で地球全体の環境が人類の生存しえないものになってしまったとか、巨大な隕石が衝突して地球の生命はすべて亡んでしまったとか)、失われはしても「生きる意味」はそのつどあったと考えることができるのではないか。
「自分の死後間もなく」ではないかもしれないけれど、この地球が滅び、全人類が滅亡する可能性というのはタイムスパンを長くとれば、ほとんど100%に近い確率なのではないか、と思います。
もちろん遠い未来に人類が太陽系を脱出して別の銀河系にでも移住して生き延びるというSF的世界が実現する可能性もゼロコンマのあとに長いゼロの行列をつけて最後に1を付け足す程度の極小の可能性なら絶対にないとはいえないけれど(笑)、まず人類はそう遠からず滅亡してしまうだろう、という可能性のほうがはるかに高いことは、たぶんよほど楽観的な人でない限り、みんな感じていることではないでしょうか。
だから人生は空しい、すべて空(くう)の空なるかな、とみなすこともできるけれど、自分がいなくなってしまえば、意味があるとかないとか感じたり考えたりする主体もないわけですから、自分が生きている間だけ根拠づけができるなら、それでいいのではないか、と思います。
ただ、小林流の根拠づけは、身近な家族や恋人や親友からだんだん縁の遠い人へ、さらに将来のまったく縁のない人たちへの無限の連鎖によってなされるものですから、個々人が感じる主観としての「生きる意味」とつながるようには思えない、形式的な関係に過ぎないもので、その「意味」はどんどん希釈され、稀薄化されていってしまうので、これをもって私などの当初の自問に対する自答とするには、ひどく楽観的でロマンチックな答え方のように思えてしまいます。
しかし、それぞれの個人の身近な世界にとっては、「生きる意味」を与える根拠が、その身近な人々であり、それが個人を社会に開かれた関係へと導くものであることは疑いようがないと思われます。
そうすると、小林の考えとは逆に、それぞれの個人にとっては、自身の身近な人たちとの関わりのうちに「生きる意味」を根拠づけるものがあり、逆にそうであるからこそ、小林がいうような無限の将来の世代にまでつながるような関係づけも、「意味」も、そこを起点としてひとつの可能性として形成されうる、と考えるほうがいいのではないか、と思います。
従って、明日世界が滅亡して、その可能性が断たれるとしても、いま私が「生きる意味」がないとは言えないし、そう感じることもない、と言えるのではないか。
明日人類が滅亡してしまうなら、生きる意味はない。私たちの生きる意味を支えているのは無限の将来にわたる人類の生存だ、というのは、まったく倒錯的な考え方だと思います。
私たちの生に意味を与えているのは遠い将来世代なんかではなく、今ともに生きている同時代の身近な親しい人たち、家族や友人や知人たちであり、それらの間で生の意味を相互的に創り出しているのであって、またそれらの人たちの生に意味を与えているのはその人たちそれぞれの周囲の人たちであり・・・というふうに、シェフラーの想定とは真逆に、身近なところから、空間的にはだんだん遠くへ、また時間的にもだんだんと遠い未来へ、あるいは過去へと意味附与機能は薄まり、弱まりながら広がっているということだと思います。
だから、別段明日人類が滅びたって、いま(まで)生きて来た現存する個人の生きる意味はすでに賦与されているし、すべてが消えてしまうというなら、もともと人類などいつかは消えてなくなるものでしょう。だからといって意味がないわけではない。それは主観的にもそうだし、客観的にもそうです。
なぜなら、私たちとその周囲の人々との関係は客観的なものだからです。それは吉本隆明さんのいう「関係の絶対性」としてあるわけで、主観的に何を生きがいにしている、といったこととは別に、どんな人間にも生きることの意味が客観的、普遍的に与えられているのだと思います。
それは何か人生で大した事業をなしとげたとか、なにか役に立つものを遺したとか、そんなこととはまったく関係なく、どんな貧しい人生を送った人にも賦与される、生きる意味なのだと思います。
大体、主観的にも、シェフラーのような倒錯した考え方は嘘っぽく感じられるでしょう。無限の将来世代からしか私たちの生は意味づけられないなんてね。
そんな無限の将来世代の誰一人として、私は知らないし、向こうだって私のことなど知らないでしょう。そんなのに自分の生が意味づけられるなんて思えますか?(笑)
しかし、そんなことをこの種の自称思想家たちは大まじめで主張するんですね。アカデミックな体裁をとって。おかしなことだと思います。
私たちが常識で考えても、あなたが生きていないと困る、あなたが生きていることが私の生きがいでもある、という人が、家族であれ恋人であれ友人・知人であれ身近な人にあれば、彼なり彼女なりはそれこそ自分の生きる意味をそうした周囲の人たちを鏡として映しみて、実感することができるでしょうし、そのこと自体が彼なり彼女なりの生きがいとなるでしょう。
無数の無限の将来世代なんかよりも、たった一人でも二人でもいい、いま共に生きている身近な人が、あなたが自分の生きる意味だと思ってくれることのほうが、何億何兆倍もたしかな、主観的であると同時に客観的でもある私の「生きる意味」を創ってくれる力となるものではないでしょうか。
以上のようなことを日々の日記ブログのほうに書いてきたのですが、このたび小林が言及していたサミュエル・シェフラーの『死と後世』(森村進訳 ちくま学芸文庫 2023)を読んでみました。
小林の紹介で十分かもしれませんが、いちおうシェフラーご本人の言葉で、何を主張しているのかをご紹介しておきましょう。
「あなたに一つの粗野で病的な思考実験をしてもらうようお願いすることから始めよう。あなた自身は通常の長さの寿命を持つことになるが、あなたの死の三十日後、地球は巨大小惑星との衝突によって完全に消滅する、ということをあなたが知っていると想定する。この知識はあなたの残された生涯の中であなたの態度にどのような影響を与えるだろうか?」(同書p44-45)
これがシェフラーの問いかけの発端ですね。こういう地球の滅亡、世界の終わりは、キリスト教で「最後の審判の日」と言われるもので、一般的には、”doomsday”と呼ばれています。Doomは悪い運命、破滅、死、最後の審判などを意味する言葉です。
さてシェフラーは自分が投げかけた問いに対して、次のように自問してみせます。
「・・・もしわれわれがトゥームズデイ・シナリオに直面したら、多くのタイプのプロジェクトと活動はもはや追求に値しなくなると思われるだろう。
さてここで<これらのプロジェクトと活動の魅力は、自分自身の死を考えるだけでは、同じようにして失われることがない>ということに注目すべきである。人々は自分の生きている間には癌研究の一次的な成果が達成されないだろうということを認識していても、喜んでそれらの活動に従事する。
それでも、もし私の議論が正しいとしたら、もし彼らが自分の死後地球の破壊のために何ら成果が達成されないだろうと思っていたら、これらの活動に従事しようという動機づけは弱まるか完全になくなってしまうだろう。
言い換えれば、多くのプロジェクトと活動がわれわれにとって有する重要性は、自分自身の死の予期によっては減少しないが、他の誰もがすぐに死んでしまうという予期によっては減少するのである。
そうすると後世という言葉によってわれわれが自分自身の死後における地球上の人類の生命の継続を意味するとしたら、<ある重要な意味において、われわれにとって後世の存在は自分自身の存在の継続よりも重要である>という結論を避けるのは難しいと思われる。
われわれにとって後世の存在が自分自身の存在の継続よりも重要なのはなぜかというと、前者はわれわれにとって重要である他の事物の条件だからだ。
この後世が存在するという信頼がなければ、現在われわれの生活の中でわれわれにとって重要であるものの多くは、全然重要でなくなるか、それほど重要でなくなるだろう。(p54-55)
「・・・継続的な歴史的プロジェクトとしての人類[人間性]それ自体が、何が重要かに関するわれわれの判断の大部分に暗黙の引照基準を与えるのである。
この引照基準がなくなったら、重要性に関するわれわれの感覚は―それが明示的な内容においていくら個人主義的であるとしても―揺るがされ、掘り崩され始める。自分自身の個人的目的の多くが現在自分にとって重要であるためには、人類が未来を持つことがわれわれには必要である。
実際のところ私は一層強いことを信じている。―物事が重要であるという発想そのものがわれわれの概念のレパートリーの中で確固たる位置を持ち続けるためには、人類が未来を持つことがわれわれにとって必要である。(p106-107)
「・・・多くの人々はできる限り長生きすることを切望している。それでも個人的後世への信念の欠如は、個人的生存の予期を伴わない集合的後世への信念の欠如に比べると、人々の現世における目的追求の価値あるいは重要性への確信を掘り崩す蓋然性が実際にはるかに小さい。・・・(中略)・・・
これらの具体的な点で、集合的後世は個人的後世よりも人々にとって重要だ。別の言い方をすれば、集合的後世が存在するだろうというわれわれの確信は、個人的後世が存在するだろうというわれわれの確信よりもはるかに大きな程度において、他の物事がわれわれにとって今ここで重要であるということの条件である。」(p122-123)
「私が言いたいのは、<これらの態度にもかかわらず、ある特別な意味ではわれわれ自身の生存は人類の生存よりもわれわれにとって重要でない>ということだ。人類の差し迫った消滅を予期する方が、他の事物をわれわれにとって重要なものとして取り扱うわれわれの能力へのはるかに大きな脅威となり、そうすることで、価値を持つ生涯をわれわれが送る能力へのはるかに大きな脅威となるのである。」(p124)
もう十分でしょう。こうしたシェフラーの主張に対して、この本の巻末に収められた彼の同僚や知人らしい学者たちがもっともな批判を加えています。中でもハリー・G・フランクファートの批判はまっとうなもので、ほぼ私などの考えと重なっています。
「シェフラーはわれわれが価値ある生を送ることを可能にするために未来が果たす役割に関心を集中するが、われわれの死後も人々が生き続けるかどうかは、本当はそれほど重要でない。重要なのは、ある仕方でわれわれのことを知っている他の人々がいる―それらの人々が未来のある時点に存在するか、今現在存在するかにかかわらず―ということだ。」(p218)
批判者たちの批判が集中しているのは、シェフラーがみずから立てた問いに対して、人類が明日滅亡するなら今我々が携わっている活動の多くは無意味になるだろう、という意味合いの自答を与えている点、あるいは、現在の我々の活動の重要性を保証しているのは集合的後世、つまり将来にわたって人類が継続的に生存することだ、と主張している点であることは当然でしょう。
シェフラーが、もし明日にでも人類が滅亡するなら意味を失うかにみなしている現在の私たちの諸活動、例えば芸術の創造だとか、学問的研究だとかについても、批判者たちが、そうした活動は別段将来の人類の生存の継続性に依拠しているわけではなく、それぞれ自立的な根拠をもって存在しているのだということ、例えば芸術家にとっては新しい作品を造り出す創造の歓びがそうであり、研究者にとってはあらたな発見がそうであろうと、しごくまともな批判をしています。
これに対してシェフラーは「コメントへのリプライで更に反論して自説を主張していますが、「私は、もしわれわれが後世を信じなくなれば、物事が重要だという観念自体が失われる、とは言っていない。単に<物事が重要であるという発想そのものがわれわれの概念のレパートリーの中で確固たる位置を持ち続けるためには、人類が未来を持つことがわれわれにとって必要である>と言っただけだ」というふうな自分の主張の断定的な調子を和らげ、トーンダウンするような言い訳をし、批判者たちだって、明日人類が滅亡すると知れば人々が現在たずさわっているある種の活動に重要性を感じられなくなるということについては反対しておらず、認めているのだ、という言い方で、批判を回避するだけで、有効な反論はできていません。
明日人類が滅亡する、と知れば、それは誰にとっても大変なことだからショックだろうし、いまやっていることが手につかなくなる人が大勢出てくるだろう、というのは集団心理学的には大いにありうることでしょう。
しかし、それは昔、ノストラダムスの予言だったか何だったかで、いついつ地球が滅亡する、という予言があって、その日が近づくと平生ではあまり考えられないような行動をとる者が世界的に出て来た、という経験によってもわかるように、今の私たちの活動が未来につながり、人類が継続してきた諸活動の流れのなかにある、という漠然とした思いに、その活動の意味や自分自身の存在意義を感じるという人はもちろん少なくはないと思うので、その時間の流れが断たれ、未来が消滅することが明確になれば、大きな衝撃、失望、自分のやっている活動や自分自身の存在に意味を見出せなくなるという人たちが少なからず出てくることは大いにありうるでしょう。
それは集団社会心理学の課題ではあるかもしれませんが、少なからぬ人々がそういう思いをもつであろうということと、その種の人々も含めていま生きている私たちの活動や生の意味が、将来の人類の継続的存続に支えられ、私たちが今やっている活動が重要だとか、意味があると考える根拠がそこにある、ということとは別のことです。
前者は単なる集団心理学の対象となる社会的な心理現象にすぎず、ノストラダムスの予言を信じて頽廃的な姿でその「終末の日」を迎えて肩透かしをくった人々みたいな連中が或る程度は現れるであろう、というだけの話で、わたしたちみなの生きる意味や、活動の重要性を語り得る根拠が何か、をそこから語ろうとするのは論理の飛躍です。
シェフラーの議論は、人類滅亡となれば多くの人々が感じるだろう不安や絶望的な心理、あるいは或る種の人々が陥るかもしれない捨て鉢な気持といった、或る危機的な状況下で人々にみられるだろう社会心理学的な現象から、ただちに、私たちが世界や他者との客観的な関係性をもとに意識するか否かに関わらず形成している価値観や物事の判断に関わる物差しのような、多かれ少なかれ客観性をもつ規範的なものとを曖昧に混同しているために、ある条件下で少なからぬ人々が、いまやっていることに重要性がないと感じるようになる、という社会心理学的に予想され、ありうる現象を、そうした人々も含めてわれわれいま生きているすべての人間がやっていることに重要性がなくなるという客観的事態と同一視し、混同してしまうのです。
そこから、逆に、いまのわれわれの活動に意味を与え、根拠を与えるのは将来の人類の継続的生存だ、といった倒錯した結論が導かれることになっています。
もちろんある物事に重要性があるとかないとかいう判断もまた、主観的なものであり、価値観の問題ですから、状況の変化によって変わりうる意識のありようであるという点で、突き放して見れば単なる心理現象に過ぎず、ある条件下でその価値観が変化するのを観察することはできるでしょう。
明日人類が滅亡することを或る確からしさで知ったときに今やっている活動の多くを無意味に感じ、捨て鉢になる人が増えることは大いにあり得ることだし、それは確かにふだんそういう人たちが自分たちの諸活動に意味があると感じている根拠の少なくとも一つとして、明日も明後日も昨日や今日と同じように人類が滅亡することなく生存しつづけ、自分の活動がそういう大きな流れの中にあって、自らもその流れを構成する要素のひとつだと漠然とでも感じ、或る種の張り合いを感じてきた、といったことがありうるのでしょう。
ただ、その種の意味や価値を与える根拠として、私たちが死んだあとの「集合的後世」が特権的なものである、という根拠はどこにもありません。
今現在身近に生きている家族や友人、知人、同時代の人々もまた、将来の人々と同様に、いやかれらよりもはるかに強力な根拠として私たちと関わっているはずだし、考えようによってはすでに亡くなった、生前に身近に関わって来た人たちもまた、そうした根拠を与える関係の網の目の身近な結節点を成す存在であるに違いありません。将来世代だけを強調し、特権化し、将来世代の「集合的後世」が今の私たちの活動を、生を意味づけ、その重要性を感じるための根拠だと断ずる根拠など、どこにもありません。
ひとは他者という鏡に映る自分を見て初めて自身を知る存在ですから、こうした現在、過去、将来の身近な存在(という自身の鏡)が、自分の生を意味づけ、自分の活動を価値あるものとして認識する根拠となる、というのは事実でしょう。その意味で、シェフラーの主張は、そうした根拠づけの中の一部分を成すものであって、はじめからしまいまで間違い、何の根拠もない、というわけではありません。
ただ、彼は将来世代の存続、「集合的後世」だけをクローズアップして、現在の私たちの活動や生を意味付け、根拠づける唯一のものででもあるかのように語ってみせたところに、不当な拡張と論理の飛躍があったと思います。
現在の私たちの活動の意味、その重要度、価値を根拠づけるのは、小林慶一郎がシェフラーの主張を単純化して述べたような、はるかに遠い無限の将来世代の存在、それとの関係という永遠に継続する「集合的後世」の時間などではなく、むしろまったく逆に、今現在の私たち自身と互いによく知り合う身近な人々の存在、それとの関係の深さであり、きめ細かさであり、切っても切れない相互的な関係にほかならないのです。
従って、敢えて言うなら、この私たちの身の回りから遠く離れ、時間的に過去であれ将来へであれ、遠ざかれば遠ざかるほど、その関係は浅く稀薄になり、現在の私たちの活動の意味、その重要度、価値を根拠づけるものとしては客観的なウェイトを失っていくのは自明の理であり、主観的にも私たちはもはや顔も名もしらない幾世代ものちの誰かれに自らの生きる意味を見出すことは出来ないでしょうから、このことは理論的に裏づけられるだけではなく、実感的に誰にとっても容易に理解できることだと思います。
(追記おわり)
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