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第1話 私とわたしとワタシ
半分ほど開けられた教室の窓から入り込んできた風に左頬がそっと撫でられ、私の意識を黒板の「教育と心理学」などと書かれた文字に向かわせる。
机の上に出した分厚い教育心理学概論の教科書は開いていたページが流れてしまっていて、ずっと同じ調子の先生の声に瞼を閉じられないように注意しながらどこのことを言っているのか探す。
携帯電話に表示されている時刻は四時を回っていたが、最近はこの時間でもびっくりするくらいに温かい日が多い。季節外れの嵐や北海道なのにと前置きをされる猛暑日が、知らない間に日常に置かれていた。
手にした携帯を折り畳もうとしたところで、メールの通知がある。砂山幸子からだ。またサークルの話かと思って見ると、チョコミントの美味しい店を見つけたから一緒に食べに行こう、というお誘いだった。
嫌いじゃないけれど特別好きという訳でもない。
だから積極的に断る理由を見つけられない。
それでも返事をしないまま携帯電話を閉じて鞄に仕舞うと、教科書にぼんやりした視線を一旦戻す。
前の席に座って肩を寄せてこそこそ話している同期生は、大学の前に新しく出来たラーメン屋に行くかどうしようかそれなら同じサークルの男子を誘いたいけれど彼って彼女持ちっぽい、みたいな会話をして、チョークを手にした先生の視線を何度か奪っていたが、そんなことを気にしているのは私くらいなもので、座っている誰の心の中にも「早く時間が終わらないかな」という嘆息があるのだろうなとしか感じられなかった。
無理だって出来る訳ないじゃん、という一段大きな声を上げた前の女子は先生の咳払いを聞いてもくすくす笑いを続ける。
そんな風に誰かのことを気にせず生きていけたら、私はきっと、もう少し孤独になれるのだろうけれど、いつまで経っても周囲の雑音は消えないまま、二十歳という年齢を越してしまった。
自転車で路地を駆け抜ける。
段差で少し跳ねて、前の籠に入れた買い物袋の中の生卵のことが気になったけれど、この前のように落とした訳じゃないから大丈夫だろうと思うことにした。
見上げた空は雲が多くて、それでも最近はこの時間もまだまだ明るい。路地の街灯はぼんやりとした光を放ち始め、帰宅途中の学生や会社員をそれとなく照らしている。
この辺りは学生が暮らすアパートが多いけれど、明かりの付いた住宅から漂ってくるのは家庭の夕食の香りだった。
子供たちのはしゃぐ声に、母親の声が重なる。
ちょっと苛立ったやり取りのようだったけれど、それでもどこかごく普通の家庭のそれに思えて、私は腰を上げペダルを漕ぐ足に力を入れた。
ここ最近は暑い日が続いていたが、このくらいの時間帯になればしっとりと空気が落ち着いて、幾分心地良い。風を切って走るこの時間が、私を色々なものから自由にしてくれるような気がして、好きだった。
交差点で左に曲がり、ブロック塀を少し行くと二階建てのアパートが見えてくる。
自転車を駐輪場に止めて籠から買い物袋を取り出すと、鍵を掛けてからスチール製の階段をたんたんと登って自宅に向かう。
暗いままの部屋が殆どで、私の二〇四号室まで暗がりを歩いていく。お隣は今は空いていると聞いているから、できればこのまま残り三年間を何事もなく過ごせるようにそのままでいて欲しかった。
鍵を差し込んで、ドアを開ける。
スイッチに手をやり明かりが灯ると、そこには待ち構えてましたとばかりに赤い水玉のワンピースを着た女の子が、満面の笑みで「おかえり」と私を出迎えた。
「ねぇ」
「すぐご飯にするから待って」
彼女は私のジーンズにまとわりついて、買い物袋からあれやこれやと取り出すのに邪魔になって仕方ない。
それでも冷蔵庫を開けて割れていなかった生卵を仕舞うのを手伝ってくれたり、「はい」と袋の中から豆腐やネギ、魚肉ソーセージを取っては渡してくれる。彼女にとってはそれはとても大切な仕事なのだ。お手伝いではないことを、私はよく知っている。
冷蔵庫を閉じると、袋を畳んでリビングへと移動する。
六畳間には小さな白いテーブルと二段に積み上げた衣装ボックス、それに布団が三組、畳んで隅に置いてある。
その積み上がった布団にもたれかかりながら膝を抱えて私を見る、グレィのパーカーを着た少女がいた。
「またサークル顔出さなかったんだ」
「いいのよ。出たところでみんなお菓子食べて喋ってるだけだから」
唇を少し尖らせて黙り込むと、彼女は足元に積み上がっていた文庫小説を手に取って開いた。口を開けば文句か小言で、それ以外は常に本を読んでいる。
その反対側では五歳の少女がスカートの裾がほつれてしまっている人形を手に、一人でままごとをしていた。
彼女たちの名前は岩根今日子。そして私の名前も岩根今日子だった。
私は彼女たちに分からないように小さく溜息を落として、上着をハンガーに掛ける。今日は味噌汁と玉子焼き、半分残っている大根は千切りにしてサラダにでもしよう。
キッチンに立ち、蛍光灯を点ける。リビングからは時折五歳のきょう子の声が聴こえたが、何も構わずに包丁を取り出して、味噌汁に入れる人参と大根を刻み始めた。分量は約三人前だ。
昨夜作った味噌汁の残りを温めながら、炊き上がったご飯の半分をおにぎりにする。ゴムで思い切り上げた前髪が引っ張られて僅かな痛みを感じたけれど、気怠い意識を目覚めさせるにはちょうど良い。
左を見ればまだ敷かれたままの布団の上にきょう子は大の字で眠っていて、それをもう一人のキョウコが壁を背に座って本を読みながら時折睨みつけている。
それでも最近喧嘩にならなくなっただけマシかな、と思う。
三つのおにぎりの中にはそれぞれ、岩のり、鮭フレーク、梅干し、を入れる。別に彼女たちは学校に一緒に来る訳じゃないけれど、三人分作らないと私の空腹は満たされない。
「もうそろそろ起きてくれないと困るんだけど」
温まった味噌汁をお椀三つに分けながらそう声を掛けると、仕方ない、といった動作でキョウコがきょう子の丸出しになったお腹を擦る。小さな呻きと共に伸びをすると、むくっと上半身を起こして「おはよ」と寝ぼけ顔で言った。
私はテーブルの上に味噌汁とご飯を三人分置いて、一人でいつものワンピースに着替えているきょう子を横目に、足元の目覚まし時計の時刻を確認する。
七時五十八分。準備して出掛けて何とか一時限目の講義には間に合うだろう。
「いただきます」
私が手を合わせたのを見て彼女たちも同じようにそれぞれの声で「いただきます」と言った。
別に結婚している訳でもなく、兄弟がいる訳でもない。
けれど私にとってはこれが日常だった。
それは十年前にきょう子が生まれて以降ずっと、紛れもない私の人生なのだ。
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