主神の祝福

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「……そんな事を私に言ってくれた人間は、お前が初めてだ……」  子供のような歓喜に満ちたその口調に、ヴィクトルは照れながら視線を逸らした。 「いきなりその格好に戻んなよ……。あと俺は人間だからな。飯奢るとかしかできねーぞ」  釘を刺すように言うと、彼は仮面の奥の目を細めた。 「私の望みは――」  バアルが言いかけた瞬間、神殿の周囲に集まった観衆からわあっと声が上がり、その言葉が掻き消された。  神殿の扉口が開かれたのだ。  ヴィクトルは反射的に相手の腕を取り、階段から退かせた。  白いローブを身に纏った神が優雅に立ち上がり、掴まれた腕をずらし、ヴィクトルの手をぎゅっと握ってくる。 「おい、何だよ」  焦って問うと、神は美しい唇を引いて笑った。 「お前の隣で踊りたいから、今から確保しておくのだよ……」  ――その滑らかな感触の手が温かくて心地よく、何故か振りほどくことが出来ない。  その状態のまま、密集する群衆の中に混じる。  一緒に踊ることが彼の望みなら、このままでも仕方がない――のだろうか。 「全く……終わったらちゃんと離せよ」  神は返事の代わりに指を握りしめてきた。  神殿の扉口からは、銀の角と黒髪を持つ双子の神が現れ、最後に美しい銀髪をなびかせたアビゴール・カインがゆっくりと進み出る。  彼は顔を仮面で覆い黒いローブを纏った姿で、王都の民を前に堂々と口上を述べ始めた。 「さあ――エルカーズの民よ。私は今、お前達に呼び出され、再びこの世界に降り立った……」  彼の神としての姿をこの目にするのは二度目だ。  その甘く艶のある声は隣に居る男とよく似ている。  バアルが密かに身を寄せてきて、こっそりと耳元で囁いた。 「あの台詞を言うのは私のはずなのに、一番良い役を取られてしまったのさ。――まあ、今、この王都の者たちにとって一番の神は、アビゴールであるに違いないが……」 「……」  ヴィクトルは肯定も否定もせず、複雑な気持ちで視線を下げた。  彼が本当にこの国に幸いをもたらす神なのか、自分には分からない。  少なくともレオンに関しては、相当な目に遭わせている事も事実だ。  それでもあの素直で純粋な瞳は、アビゴール・カインのことだけを映していて、自分の入っていく隙は無かった……。  つい最近まで抱いていた恋情を思い出すと、胸が痛む。  その心を読むかのように、自分の手を握っているバアルの手に力がこもった。 「――今夜から明日の太陽が沈むまでは、飲み、歌い、踊り明かすが良い。神と共に、その心を喜びで満たせ!」  カインの言葉が終わり、双子の神が演奏する陽気な音楽が始まった。  祭の熱狂の中で皆が手を繋ぎ始め、ヴィクトルとバアルもその一端に加わる。  流されるように温かい手を繋いで炎の周囲を回るように踊っていると、不思議な気持ちになった。  当たり前だが、隣に居るのも神殿の壇上に居るのも、異世界からやってきた異形の神だ。  神と人とが、手を取り合って踊り合う――生きてきた中では記憶に無い光景を今、自分は見ている。  神々の古い記憶の中だけに残っていた、交わりの祭。  太古の昔には、神と人との距離が今よりもずっと近かったのに違いない。  手を繋ぐ自分と、バアルのように……。  ――急に、彼が帰ってしまうことが寂しく思えて、戸惑った。  正確に言えば、よく懐く紫の瞳の小さい生き物が、自分の肩の上からずっと消えてしまうことが。 (今日一日付きまとわれただけなのに情が移るとか……何の罠だよ、クソ……)  気付かれないように小さくため息をつく。  すると神は強くヴィクトルの腕を引いて、踊りの輪から外れた。  黒猫の仮面が外れ、地面に落ちる。 「おい、何処に行くんだ」  訊ねると彼は微笑み、人混みに紛れてヴィクトルの身体を逞しい両腕で強引に抱き寄せ、自らの白いローブでフワリと包み込んだ。  視界が遮られ、何事かと相手を押し返す。  ――そしてバアルの身体が離れた次の瞬間には、自分が今朝がたに見たあの鏡張りの寝室の中に立っていることに気付いた。 「げっ……またここかよ……」  戸惑いながら毒づくと、目の前で神は仮面を外した。  神々しい白皙の美貌が現れ、優しげな紫の瞳が心にすっと入り込んで来る。 「ヴィクトル……私の望みは、お前と交わることだ……」 「は?」  一瞬何を言われたのか分からず、首を横に傾ける。 「――私は、お前とセックスがしたい」  ストレートな言い方で念を押されて、やっと事態が飲み込めた。 「はあ!? 正気かお前は!!」  まさかそんな事を正面切って頼まれるとは思いもしない。 「神様ってのは一体どういう趣味してんだよ……」 「だめか?」  いかにも残念そうに問われてうっと喉が詰まる。 「くそ、可愛いフリで油断させやがったな。――まあ俺も安易に願いを叶えてやるなんて言っちまった手前があるが……。言っとくけど俺は男の経験はほとんどねえぞ」 「殆ど? 少しはあるのか?」  バアルが興味深げに聞きながら、ヴィクトルの頬を指で優しく撫でる。気付けばまた距離が縮まっていた。 「――まあ、少年兵の頃から軍隊に入ってたからなあ。この肌の色で上官に目え付けられて――珍しいことじゃねえだろ」 「……。それでもお前は、母親の為に逃げなかったのだな……」 「俺しか居なかったからな、働ける男は。そんな話はどうでもいい。一応聞くが、あんた、上と下どっちがいい良いんだ」  神が首を振り、揺れる白髪に編み込まれた宝石がシャンデリアの炎で煌めいた。 「……上とか下とかいうのは分からないが、ただ、お前の中まで触れてみたい……」  ヴィクトルはクスッと喉を鳴らした。 「祭りの夜だからな……今夜限りなら相手してやるよ。――せいぜい楽しませてくれ……」
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