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腰まで長く伸びた、ウエーブのかかった艶やかな黒髪。
瞳の色は夜の闇を思わせる漆黒で、肌の色はヴィクトルのそれよりも一段濃い褐色。
歩くたびに揺れる沢山の飾りの付いた薄衣の下の豊満な肉体と、濃い睫毛に縁取られた目の印象的な美貌は、確かに王都の娼婦達が霞むような存在感だ。
そしてその容姿は、余りにもヴィクトルの記憶の中の母の姿に酷似していた。
南の大国バルドルの出身で、エルカーズ人の父に見初められた舞姫であった母。
目の前の彼女の姿は、まるで記憶の中の母がそこに現れたかのようだ。
視線を奪われるあまりに手に持ったゴブレットを落としかけ、ハッと我に返る。
美しい異国の女は揚げた両の腕にはめた鈴をシャンと鳴らし、従えた屈強な男の打つ異国の打楽器の音に乗せ、美しく舞い始めた。
空気が研ぎ澄まされ、酒場の男達の意識と視線の全てが彼女一人の躍動する艶姿に集中してゆく。
音は打楽器のみで、音色は無いに等しいのに、かえってそれが人々の血を沸き立たせるのか、ヴィクトルもいつの間にか、言葉で言い表せない熱の渦へと引きずり込まれていた。
――もしかしたら、自分の中に眠る母の血がそうさせたのかもしれない。
まるで魅入られたようにぼんやりとしている内にいつの間にか音は止み、ミランダは美しい鈴の音を立たせながらピタリと動きを止めた。
まるで完璧な絵画のように美しい終幕に、店の壁が吹き飛びそうな程の喝采と声援が飛ぶ。
「ミランダ! ミランダ!」
汗ばんだ胸元を弾ませながら長い黒髪を掻きあげると、彼女は真っ直ぐにヴィクトルを見て妖艶に微笑んだ。
「……!」
射止められたようになっていると、身を乗り出したフレディが大声で叫ぶ。
「おお女神よ! どうか今夜は俺のテーブルに!」
すると対抗するように店内の男達が口々にミランダに呼びかけ始めた。
「何言ってやがる、俺のテーブルだ!」
「こっち空いてますよ女神!」
――だが、引く手あまたの美女が素晴らしい身のこなしでやってきたのは、ヴィクトル達のテーブルだった。
「!!」
憧れの美女に興奮したフレディが一瞬椅子から飛び上がり、ミランダに席を譲る。
彼女は軽く会釈すると、蠱惑的な眼差しをヴィクトルに向けた。
「初めまして、私はミランダ。ワインを下さるかしら?」
「……。生憎、飲み干した所だが」
そう言うと、エリクから押しつけられるようにワインの入った水差しと新しいゴブレットが卓上に置かれた。
仕方なくワインを注ぎ、ミランダに渡す。
彼女は華やかな笑みを浮かべ、ふっくらとした真っ赤な唇を開いた。
「あなた、南の人よね。私はバルドルから来たの。同郷かと思ったのだけど、違うかしら?」
この場では二人にしか分からない共通語で話しかけられ、ヴィクトルは益々動揺した。
幼い頃の夕べ、ベッドで眠りにつく前に優しい声音で異国の思い出を語る母の言葉は、こんな響きだったかもしれない……。
(いや、待て。今何を考えた、俺)
ぶるりと首を振って正気を取り戻し、ヴィクトルはあくまで冷静に共通語で応じた。
「生憎だが、俺はこの国から出たことがないただのエルカーズ人だ。故郷の思い出話ならこいつらにしてやってくれ。あんたの話すことなら涎を垂らして聞き入るだろう」
エリクとフレディを視線で差して立ち上がろうとすると、女は肩にしなだれかかるようにヴィクトルの腕にすがった。
「待って。私は、あなたと話がしたいの」
媚びるような視線にギクリとする。
何故、こんな女を母に似ているなどと思ったのだろう。
「……俺は単なる神殿兵だ。女に奢ってやれるほど金もねえし、あんたの期待に沿うような面白い話もない」
「あらまあ、そっけないのね。そういう人って私は好き。――明日も私の踊りを見に来てくれないかしら。ねえ、貴方の名は?」
美しい声音が籠絡するように意識に染み、女の纏う異国の花の香りに頭がクラクラする。
――このままここにいては、自分の中の何かがおかしくなりそうだ。
「悪いが急いでるんだ。――明日は来ない」
ヴィクトルは女を押し退けるようにして席を立ち、親父のいる奥の勘定台に銅貨を置いて酒場を出た。
外に出た途端、嫉妬に顔を真っ赤にしたフレディがすぐに後ろから追いついてきた。
「おいおい、何でお前ばっかりあんなにミランダと……お前まさか、何でもないようなフリして彼女と知り合いだったのかよ!?」
「違えよ、初対面だ。あっちが勝手に俺を同郷の人間と勘違いしたんだろ。俺は帰るぞ」
素直に質問に答え、足早にその場を去る。
フレディがまるで負け犬の遠吠えのように後ろから叫んだ。
「畜生……っ、俺のミランダに手をだしやがったらタダじゃおかねえからな!?」
ヴィクトルは思わず振り返り、声をかけた。
「馬鹿、何言ってやがる。お前、頭大丈夫か」
遊び人のフレディがまだ手に入れた訳でもない女のことでこんなにのぼせ上がっている所を見たのは初めてだ。
(あの女、何かある……のか?)
チクリとした嫌な予感を感じながら、ヴィクトルは足早にねぐらへと急いだ。
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