ヴィクトル・シェンクの受難

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 鍛冶屋の屋根裏部屋に戻って古鍵で戸を開けると、狭苦しい我が家は真っ暗で、妙にシンとしている。  灯しておいたままだったはずのランプの炎も消えていた。  ギシギシと軋む床を踏みしめながら中に入っていき、あたりを見回す。  いつもなら「お帰り」と言わんばかりにすぐ飛びついてくる生き物の姿がない。 「アミュ……?」  思わず名を呼んでしまってからハッとした。  いつも、さっさと自分の世界へ帰れだとか、穀潰しだとか言って罵っているのに、姿が見えなくて不安になるとは。 「……クソ……あのタコ野郎……」  何故だか深く落ち込み、ヴィクトルは毒づいた。  気を取り直し、仕事着を脱ぎ始める。  軍服の袖から腕を抜き、椅子の背に上着を被せた。  身に付けていた剣も外して壁に立て掛け、シャツを脱ぎ落とす。  闇に馴染む肌の色は、生粋の南方人であるミランダのそれよりも薄く、エリクやフレディに比べれば濃い。  その肌を『あの男』は美しいと囁きながら愛でる。いつかは飽きるのだろうと思うけれど。  真っ暗な中で着替えをしていると、突然、背後の暖炉の薪にボッと火が点った。  ハッと驚き、下半身だけ軍服を着た状態で着替えをする手を止め、素早い動きで屈んでベッドの下を覗き込む。 「お前、やっぱりいるんじゃ……」  だが、寝台の下には埃っぽい暗い床板しか見えない。  ちっと舌打ちをしながら体を起こした時、妙なことに気付いた。  さっきは真っ暗だと思ったのに、閉まっているカーテンの隙間から妙に明るい一筋の光が漏れている。  訝しみ、歩いて窓際に近づくと、分厚い布を両手で掴んで強く左右に引いた。  眩しいばかりの太陽の光が狭い屋根裏部屋とヴィクトルの顔を照らしだす。  ――建物の外に広がっていたのは、王都の夜ではなく、雲一つない青空の下の清らかな森だった。 「おいおい……」  驚き呆れつつ、すぐにこの事態を引き起こした犯人の顔が頭に浮かぶ。  我が家にこんな悪戯ができるのは、『あの男』しかあり得ない。  アミュ……バアル・アミュールの仕業だ。  ヴィクトルは木枠の窓を外に向かって開け放ち、大声で叫んだ。 「おいっ、アミュ! ふざけるのもいい加減にしろ!!」  だが、木々の間からは爽やかな風が吹き込むだけで、何の反応も返ってこない。  業を煮やし、ヴィクトルは軍服の上着を軽く羽織って部屋を出た。  階段を下ると、一階の鍛冶屋の作業場で、剣を置いた台につっぷしたまま家主が眠り込んでいる。  肩を揺すって起こそうかと思ったが、今起きても戸惑うだけだろうと思い手を引っ込めた。  なるべく足音を立てないよう、店先に出る。  外に足を踏み出すと、石畳に舗装された路地のあるはずの場所には、太陽を燦々と浴びる木立が生えていた。  足下に目をこらすと、土のむき出しになった細い獣道が扉の前から森の奥に続いている。 「……迎えにこいって……? 冗談きついぜ」  引き返そうかと思ったが、朝になってもこのままだと仕事に遅刻することになりそうだ。 「……畜生」  仕方なく、木々の間を抜けてゆく道なき道を進んだ。  木漏れ日が下生えを照らす美しい森は、ただ静かで、虫一匹見当たらない。 「アミュ!」  名前を呼びながら歩く内に、不思議な光景が左右に広がり始めた。  濃い緑の葉が生えているばかりだった周囲の樹木が、見覚えのある様々な実をつけたほっそりとした木々ばかりになってゆく。  ツヤのある真っ赤な林檎、黄色く熟れた洋梨、ふっくらとした桃に、一つの枝に鈴生りになった無花果。  ……どれも、アミュに食べさせたことのある果物ばかりだ。  首をひねりながら先へ進むと、木で作られた棚に垂れ下がる艶々した葡萄の実が見えた。  思わずごくりと唾を飲み、潜るように葡萄棚の下に入っていく。  葡萄の葉と蔓の日陰には、籐でできた長椅子が置かれ、そこに誰かが眠っているのが見えた。  地面にまで散らばるふわふわとうねった真っ白な長髪、絹のシャツの上に膝まで丈のある純白の上衣と素晴らしい金糸の刺繍の入ったズボン、装飾の施された革のブーツ。  鳥の羽のような長い睫毛を伏せて眠るその完璧に整った顔立ちは、一見すると女のように見えるが、その体格は現役の兵士であるヴィクトルよりも良く、明らかに男だと分かる。  謎の生物アミュのもう一つの姿、この国の象徴にして永遠不滅の主神、バアル。  すやすやと安らかに眠っている彼の元へ、ヴィクトルはわざと無遠慮に近づき、足元に散った白い髪を軍靴で踏みつけた。 「おい、起きろ!!」 「!?」  急に怒鳴りつけられ、長椅子の上の神がはっと目を覚まして飛び起きる。  と、同時に、踏まれた彼の長い髪の一部がピンと張り、バアルの体は反動で地面に転げ落ちた。 「ふぎゃっ」  とても最高神とは思えないうめき声が上がり、深い紫の優しげな瞳が情けなげにヴィクトルを見上げる。 「ああ、お帰り私のヴィクトル……。ひどいじゃないか、せっかく気持ちよく寝ていたのになんてことを」 「なんてことをはこっちの台詞だ。鍛冶屋ごとこんな所にぶっとばしやがって」  ヴィクトルは踏んでいた髪の上からどき、一応助け起こすように手を伸ばした。  その手が優雅に握られ、美貌の神がゆったりと立ち上がる。  同時にその長身の頭頂部が葡萄棚にしこたまぶつかり、声にならない呻きが漏れた。 「お前、本当に馬鹿だな……」  籐でできた椅子の上に再び倒れ込んだ神を、ヴィクトルは呆れて見下ろした。 「すまない……」  照れ臭そうな笑顔でバアルが微笑む。  ――これだから、突き離しきれない。  どこぞの宗教のような全知全能の唯一神のイメージとは程遠い神だ。  ヴィクトルが密かに肩をすくめていると、バアルが両腕を伸ばして誘ってきた。 「お前も座ったらいい」  アミュに抱っこをねだられる時と同じ仕草だ。  そのせいか、ヴィクトルはつい彼の隣に腰を下ろしてしまった――ただし、1フィートほどの距離は保って。 「おい、さっさと家を王都に戻せ。親爺が起きちまったらどうする。俺たち宿無しになるぞ」  隣で嬉しそうにする神をじっと睨むと、綺麗な手が伸びてきて、ヴィクトルの頬に触れた。 「……彼は起きないよ、私が眠らせたからな。それよりも、せっかくの果物を食べていかないのか? 腹が減っているだろうと思って、私がお前のために準備をしたのに」
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