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「ふっ、……く……っ、この嘘つき野郎、一口食ったらっ、家、戻す約束だろうが……っ」
また、だ。また、やってしまった。
情けなさと悔しさで熱くなった顔を片手で覆った。
もう、嫌だ。こんなに身体を変えられたらもう、元に戻れる気がしない。
目の前の男が、いる限りは……。
指の間から見える男の美貌は、ヴィクトルの体液を味わったせいか、興奮した淫靡な表情になっている。
バアルはこちらの視線に気付くと、心底愛おしげな口調で耳元に囁いてきた。
「……ヴィクトル……私に叶えてほしい望みはあるか?」
何故、この男は今そんなことを言い出すのだろう。――怒りが沸騰し、ヴィクトルは噛み付くように叫んだ。
「俺の望みは、お前が元いた世界に帰る事だ……!」
バアルが心底不思議そうにカクンと首を横に倒す。
「……嘘をついているのはお前だな……」
白い指がヴィクトルの頬を優しく包んだ。
「……私はお前の望みが読めるのに、可愛い抵抗をするのが愛おしくてたまらない。……でも、たまにはお前の口から本音が聞きたいのだ……ヴィクトル、お前の望みを言っておくれ……」
波打つ黒髪がバアルの指で優しく梳かれ、甘い声音が問いかけてくる。
「言いたくないのなら、代わりに言ってやろうか?」
紫の瞳から、視線がじっと注がれた。
ヴィクトルの身体の奥の奥まで、隠しているものを全て見透かすように。
「……かつてのお前の望みは、亡くなった母にもう一度会う事だった……でも今のお前は」
「……っ、言うな……っ」
「お前は、私と共に生きることを願っている……そしてできれば今のまま、死がお前に訪れる時まで――」
確信に溢れた口調に堪忍袋の緒が切れ、ヴィクトルの頭にカッと血が上った。
「てめえ、調子に乗ってんじゃねえぞ……!!」
声に怒りを込め、触手の絡みついたままの足でバアルの腹を思い切り蹴り上げる。
「ぐふっ……!」
反撃されるとは全く思っていなかったのか、神の長身は力を失った触手ごと無様に長椅子の上から転がり落ちた。
ヴィクトルはすかさず立ち上がり、地面に落ちた一番太い触手を靴先で踏みにじりながら白髪を乱暴に掴み上げた。
「……今度また、今みたいな嘘八百を抜かしやがったら、元の世界じゃなくあの世に送ってやるからな……!!」
「うっ、嘘じゃなっ、あぐぅ……っ!! やめておくれ、お前が踏んでいるそれ、わ、私の」
「分かってて踏んでんだよ……! さっさと家を元の世界に戻さねえと、二度と俺の中に入れねぇくらいこれをグチャグチャに踏み潰すぞ……!!」
足に力を込めて凄んでみせると、周囲の景色がすうっと薄れ、美しい葡萄棚も、鮮やかな色のリンゴや桃も全てが消え失せた。
代わりに現れたのは粗末な鍛冶屋の屋根裏の我が家の、小さな暖炉と狭いベッドの置かれた光景だ。
足下の床では、触手の一本をヴィクトルの靴に踏まれた小さなタコ型生物が、ピイピイと子供のような声を上げて泣いている。
大きな紫の目から涙をボロボロ流しているその姿を見ても、ヴィクトルの心にはもはや同情心も罪悪感も湧かなかった。
「失せろ。……しばらくお前の顔は見たくない」
踏んでいた足をどけ、プイと後ろを向く。
床に落ちた軍服と下着を拾い集めて椅子の上に放り、火の付いたままだった暖炉の前にしゃがむ。
体を温めつつ壁際に直置きした行李から新しい下着だけを出して身に付け、藁の上にリネンのシーツを敷いたベッドに身を投げ出した。
素朴な毛織りの掛け布団をひっかぶり、壁の方を向いて目を閉じる。
まだ体には触れられて高まった熱が残っている。……無数の唇と、髪を撫でる優しい指の感触も。
横にはなっているが、動揺と欲情が入り混じった興奮で、心臓が激しく高鳴っていた。
それが少しずつ収まるにつれ、じわじわと後悔がヴィクトルの胸を蝕んでゆく。
言い過ぎただろうか?
いや、甘い顔をして調子に乗せたら終わりだ。
葛藤している内に、しばらく続いていたグスグスというアミュの泣き声がやんでいた。
その後、いつものようにベッドに勝手に入ってくるかと思ったが、来ない。
もし来たら、拳骨一発のあとで布団にくらいは入れてやろうと思ったのに……。
その内に暖炉の火が燃え尽きて部屋が暗くなり、ヴィクトルはいつの間にか深い眠りに落ちていた。
翌日の早朝、ヴィクトルが起きると、アミュは部屋のどこにも居なかった。
ベッドの下や、テーブルの下、食料を入れた麻袋の中も開いてみたが、影も形もない。
朝飯を用意すれば出てくるかと思い、パン屋で一人では食べきれないような巨大な黒パンを買って帰ってみた。
不本意ながら名前を呼んでもみたが、それでもあの紫の瞳の十本足の生物は姿を見せなかった。
おかげで出勤前だというのに、自分の顔以上に大きな硬いパンを一人で平らげる羽目になってしまった。
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