ヴィクトル・シェンクの受難

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「あの野郎……。帰ってきたらタダで済むと思うなよ……」  胃もたれに悩まされながら、ヴィクトルは一人で家を出た。  いつもなら無理矢理アミュが左肩にへばりついて付いて来て一緒に出勤しているせいか、今朝は妙に肩が軽い。  城壁沿いの王城への上り坂を歩きながら、何となく体のバランスが取りにくいことに気付いた。  自分の体は、アミュの体重が片側にかかっている状態にすっかり慣らされていたのだ。 「クソ……っ」  それにしても、アミュは一体どこへ消えてしまったのだろう。  彼はここ半年以上、表向きはヴィクトルの珍しいペットとして、常に一緒に行動していた。  触手で撫でて朝早く主人を起こし、同じテーブルで一人前以上にパンや果物を食べる。  日中は盗人の捕獲や酔っ払いの保護、夫婦喧嘩の仲裁まで、持ち前の触手でヴィクトルの仕事を手伝っていた。  そして夜は――逞しく優美な青年の姿になってヴィクトルの体を気が済むまで貪った後、また小さなタコの姿に戻って枕元で眠る。  そんな生活だったから、今、一人で歩くことにすら違和感を感じるようになってしまった。  元々自分は孤独が平気な人間だったはずなのに。 「……」  複雑な感情が湧き、密かなため息をついていると、後ろから背中にドンと衝撃が走った。 「おい!」  声を掛けられ、はっとして足を止める。  振り向くと、見慣れた軍服と鬱陶しい巻き毛頭の男が立っている。 「……なんだ、お前か……フレディ」 「なんだとは何だよ。どうしたんだお前、すげえ浮かねえ顔してさぁ」  浮かない顔と言われ、ヴィクトルはますます眉をしかめた。 「別に俺は普通だっ」  即座に否定したその語気に、フレディが驚いてぽかんとする。 「いや、どう見ても不機嫌じゃねえか……。女にでもフラれたのか?」 「お前と一緒にするんじゃねえ」  うんざりして前方に向き直り、ヴィクトルはフレディを無視して歩き始めた。  フレディはますます面白がるような口調で絡んでくる。 「お前みたいな色男でもそんなことがあるんだなぁ、クククっ。でも俺のミランダには手は出すなよ! 俺たちすげぇいい感じなんだから」  妙に浮かれたその調子がカンに障り、胸がムカムカした。  同時に、何か腑に落ちない感覚が腹に疼く。  ヴィクトルは顔だけをフレディに向け、短く訊いた。 「いい感じって、どういうことだ。昨日は明らかに無視されてたように見えたが?」 「いや、そんなことねえし。一週間前だって、彼女が俺たちのテーブルに来てさ。――私は王都には来たばかりだから、王都のことを色々教えて欲しいって話しかけられたんだ。それで俺、色々教えてやってすっかり親密な感じに」 「……。一体何を話したんだ。お前は」 「彼女、意外と歴史好きっていうかさぁ。神殿とか、王城とかに興味があるとか? ……でも、一番盛り上がったのは、伯爵様の話題かな。あいつ国中の女に人気あるけど、本性はすげぇドケチで人使い荒いんだぜってバラしといた」 「……ほかには?」 「あと、悔しいけどよ、お前の話にも食いついてたな。俺の友達にバルドル人とのハーフなのに、頭が良くてすげえ出世してるヤツがいてって話したら、会ってみたい――なんて言っててさ……だから昨日、お前にあんなに親しげに話しかけてたんだろうなぁ、今思うと」  ヴィクトルは奥歯をぎりっと噛み締め、フレディの巻き毛頭を拳で軽くたたいた。 「喋り過ぎだ、バカ。相手は踊り子を装った盗っ人かもしれねえのに」 「ああ、確かに盗っ人かもしれねえな。俺の心をまるごと盗んでった……。はー、仕事なんてサボって逢いにいきてぇ、俺の女神……」 「一生やってろ」  呆れ返り、視線を外して大股で歩いてゆく。  ヴィクトルは無言で足を進めながら、心の中にあった黒い疑惑が少しずつはっきりと形をなすのを感じていた。 (あの女、やっぱり何かあるな……。手が空いたら少し調べてみるか)  密かにそう決めたところで、フレディがまた性懲りもなく素っ頓狂な声を上げる。 「あれ!? おい、そういやお前、アミュどこやったの!? なんか変だなーと思ったら、肩に貼り付いてねえじゃん!?」  思考を邪魔されると同時に、今一番思い出したくないことを思い出させられ、瞬時に感情が沸騰した。 「うるせえな、あんな奴のことはどうでもいいだろ!! 少しは黙ってろ馬鹿野郎!!」 「は、はぁい……」  こちらの態度に戸惑ったのか、フレディがそれきり黙り、おとなしく歩き始める。 (クソ……)  自分らしくない言動をしてしまったことに気付き、ヴィクトルは後悔に苛まれて唇を噛んだ。  恥辱のあまり、地面に転がっている石を思い切り軍靴で蹴る。  ――こんな風になるのも、全部あの間抜けな悪魔のせいだ。  おそらく今夜あたりにはふらっと帰って来るに違いない。  顔をみたら殴り飛ばしてやろう――。  そんな風に意志を固めたヴィクトルだった、のだが。
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