夢奏でる夜の庭

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「あぁ……」  甘いため息をつくと、それまで演奏に集中していたマルファスとハルファスが、炎の向こうで同時に顔を上げる。 「私のヴィクトル……酔っているお前も美しい……」  キスしてこようと近づくバアルの白い美貌を、のけぞりながら手のひらで押して避けた。 「やめろ……人前でっ……」  辛うじて理性を保ちながらも、酒を呷る手を止めることができない。 「はぁっ、これっ、美味いな……」  一口飲むごとに全身が痺れるような快感に染められてゆく。  酒精で肌が沸き立つ感覚は、まるで愛撫されている時のようだ。 「……は……気持ちいい……」  ぼんやりと意識が薄らぎ、敷布に置かれたタッセル付きのクッションに寄りかかる。 「人前でなければいいのか?」  バアルが諦めてくれず、優しく問いながら腕を剥き出しの背中に回してきた。  狭い敷布の上で逃げきれずに強く抱きしめられて、紫の瞳を見つめながら首を振る。 「ふざけんなお前……こんなおかしな酒……」 「別におかしなものじゃない。酔いが何倍も早いだけだ。どれ、私が少し酒精を吸い取ってやろう」  言葉とともに唇が奪われて、濡れた熱い舌がヴィクトルの口蓋をこじ開けて熱い粘膜を探る。  唾液を絡ませながら敏感な歯列を擦られ、クチュクチュと舌先を吸い上げられた。  固い蕾が綻ぶように体から力が抜けて、灼けつくような酒への飢えが少し楽になっていく。  それよりもむしろ口づけへの欲が上回り、自分からバアルの唇を貪りそうになり、ハッと思い留まった。 「……っ!」  瞬時にバアルの身体を拳で押しのける。  ヴィクトルはすぐに立ち上がり、マルファスとハルファスに向かって叫んだ。 「おい、お前ら、音楽変えろ! 練習がてら踊ってやる」  瞬時にそれまで奏でられていた音楽が止んだ。  演奏していた二人が楽器を素早く持ち替える。  見たことのある打楽器に、子供時代の古く懐かしい記憶が鮮やかに蘇った。  若く美しい、踊る母の姿。  長いスカートを舞わせ、歌を口ずさみ、優美に舞う褐色の女神。 『一族に昔から伝わる、古代の神様に捧げていた踊りよ。……ヴィクトルにも教えてあげましょうね』  そう言った母に、毎日少しずつ踊ることを習った。  美しい腕の動きや指の形の作り方、飾り布の華麗な操り方や、自分の肉体を魅せる姿勢を作る方法。  重力を感じさせない華麗な足捌きも見よう見真似で覚え、身のこなしが軽くなった。  それは軍隊に入ってから剣技を習得するのに幾らか役立ったが、自分が踊れることは、誰にも言った事がない。  ヴィクトルは乗馬用の軍靴を足元に脱ぎ捨て、バアルが腰に巻いていた幅の広く長い純白の帯を掴んで奪った。 「貸せ」  それを身に絡ませながら、星空に向かって上がる炎に近づいてゆく。  焚き火を挟んで双子の神の前で跪き、まぶたを閉じてこうべを垂れた。  それを合図に、双子達が躍動感のある打楽器の音を中心とした音楽を演奏し始める。  そのリズムに覚えがあり、身体は自然と動き出した。  火の粉を払うような距離で布を振り上げながら立ち上がり、すべるような足捌きで舞い始める。  腕を伸ばして手のひらを天に向け、自らの肉体を辿るようにそれを下ろしながら足で地面を踏みならし、研ぎ澄まされた肉体を音が次第に一つなった。  優雅な指さばきで腰に布を結び、音の高鳴りとともにしなやかに身体を回転する。  振り返りながら褐色の肌に五指を這わせ上げ、髪をかきあげて喉を仰け反らせた。  長い手足に布を絡ませながら流し目を送った先で、バアルが顎を外したような間抜け面をしている。  伯爵の思うツボになってしまうのは悔しいが、バアルのそんな顔を見られたことには僅かな楽しさがあった。  ――それに、長い時を経て懐かしい音楽で母と同じ踊りを踊ることは、意外にも心地がよかった。  神酒と、この不思議な庭のせいだろうか。  集中して踊っていると、紫色の瞳が、燃えるような欲を湛えて自分を見つめているのに気付いた。  面白くなり、布を腕に滑らせながら腰を艶めかしく揺らし、銅に巻いた帯を腹にずらして神を挑発する。  バアルが思わず乗り出して手を伸ばすのを視界の端で見て、ヴィクトルはにべもなく体の向きを変え、しなやかな筋肉に覆われた汗ばんだ背中を見せた。  高まってゆく打楽器に跳躍で応え、布を掴んで派手な回転を繰り返して炎を回り、華やかな盛り上がりに向かう。  古代の神々に生贄に捧げられることになった純潔の乙女が、勝気に抗うものの、最後には自ら純潔と命とを捧げることになる――確かそういった意味合いを持っている舞踊の筈だ。  母の宗教では唯一神以外への信仰が禁じられていたはずだが、踊りだけは残っていたのだろう。  古代の神々というのは、恐らくエルカーズの神々とも共通するような、――。  何かに思い当たるような気がしなくもなかったが、しゃくなので考えるのをやめた。  無心に踊るうちに、玉のような細かい汗がヴィクトルの褐色の肌を包み、炎を反射して光る。  それを熱い空気に弾けさせながら、腰に巻いた帯を素早く解き、身体を縛めるように絡ませながらなお踊った。  音楽は少しずつ低く轟くようになって終末に向かい、物悲しい弦楽器の音が悲鳴のように天幕の中に響く。  やがて音の終わりと共にヴィクトルは布を握ったまま地面の上に倒れ込み、大きく呼吸を繰り返した。 「はーっ、はーっ……」  酔っている上、普段は絶対に使わないような筋肉や関節を無理やり稼働させたせいか、全身が引きつっている。 (これは着くまで毎晩練習しねえと、ラーンで怪しまれるな……)  汗ばんだ額に張り付いたウェーブのかかった髪をかきあげ上体を起こすと、いつのまにか演奏をやめていたマルファスとハルファスが上から自分の顔を覗き込んでいた。  その唇がぎこちなく動き、抑揚のない響きで言葉を紡ぎ出す。 「ヴィクトル……キレイ……ダッタ……」 「スバラシイ……カッタ……スキ」 「あ、ありがとよ……」  滅多に喋らない無口な双子の珍しい発言に、思わず素直に礼が出る。  この不思議なテントのせいなのか、それともよほど二人が感動したのか分からなかったが、何故か心が温かくなった。 「お前らも本当に凄い。去年の春祭りもそうだったが、まるで本物の楽師だな」  褒め返すと、二人は無表情でビクッと固まってしまった。  どうやら、照れているらしい。  いつまでもそのまま凍り付いているので、仕方なく身体を起こした。 「これ、返す」  テントの内側にいるバアルに帯布を放り、彼のいる場所とは真反対の敷布の上に座りこむ。  皿の上の食べ物を手づかみで食べ始めると、バアルが腰布に顔の下半分を埋めたまま声を上げた。 「ヴィクトル……! ……こ、こっちにきて、一緒に座らないのか?」 「嫌に決まってんだろ。何されるかわからねぇのに」  言い捨て、果物皿に盛られたオレンジにかぶりついていると、衣擦れの音と共に、バアルがいそいそと隣に座り込んで胡座をかいた。  彼はまるで恋する乙女のように頬を染め、興奮した早口で話しかけてくる。 「……本当に、なんと言っていいのか分からないくらい、素晴らしかった……。マルファスとハルファスも、お前に話しかけるなんて……生まれてこのかた、私にだって一度も話しかけてくれたことがないのに」 「知らねえよ、そんなこと言われても。あんたの父親としての日頃の行いが悪いんじゃねぇのか」 「ふふっ。そう言われると、言葉の返しようがない……」  嬉しそうに話すバアルの顔を、ヴィクトルは久々にまじまじと見た。  優しげに細められた紫の瞳。身体はがっしりとした男のそれなのに、少女のように繊細な目鼻立ち、抜けるような白い肌に、鮮やかな紅い色をした唇。  まだ酔いがさめないのか、無性にその唇にキスがしたくなって、すぐにまた目を逸らした。 (やっぱあの酒、なんか入ってたんじゃねぇか……)  汗ばんだ黒髪をガシガシと掻いてから、ヴィクトルは無言で食事を続けた。
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