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「お前、何してるんだ……?」
しばらくは口を利かないと決めていたが思わず問うと、アミュが天幕の入り口に向かって、見えない壁のようなものをベチベチと叩きだした。
「……何かそこにあるのか?」
不思議に思って振り向き、境目に手を伸ばすが、指先は何にも触れない。
「! まさか……」
なんとなく理由に思い当たった時、マルファスが焚き火のそばから歩いてきてアミュの背後でかがみ、その白い身体を抱き上げた。
黒曜石のような漆黒の瞳がこちらを見上げ、美しい紅い唇が開く。
「ヴィクトル……ユルサナイモノハ、ハイレナイ」
それだけを告げて、繊細な指でアミュを胸に抱き、大きな天幕の方へと去っていく。
「みゅうーっ! みゅー!」
泣きながら触手を伸ばして助けを求めるアミュのさまは、飼い主と無理やり引き剥がされる犬か猫のようで哀れみを誘う。
だがヴィクトルは肩をすくめただけで、すぐに出入り口の布を閉じた。
恐らく、自分が許したもの以外、たとえ最高神であってもこの場所に入ることはできない魔法がかけてある――そういうことなのだろう。
「……っやっ……たぞ……!!」
ヴィクトルは軍隊でも神殿騎士団でも漏らしたことのないような快哉の雄叫びを上げ、自分一人の快適なベッドにうつ伏せに飛び込んだ。
ドスンとすごい音がしたが、鍛冶屋の二階の藁敷きのベッドに比べれば何もかもがふかふかで、全く痛くない。
ここに引きこもっている限り、背中に乗られたまま寝られることもないし、気がついたら拘束されていることもない。
ましてや、精液やら小水やらを強請られて夜泣きされることもないし、早起きの鍛冶屋のオヤジを気にしながら仕事前の早朝セックスを強要されることもないのだ。
アミュはさめざめと泣いていたが、一年ぶりに自由の身になったのだ。
自らそれを手放す道理はない。
最高の気分に浸りながら、ヴィクトルはゴロンと寝返りして天井を見上げた。
てっぺんの尖り屋根の真下に優雅な透かしの傘付きランプがぶら下がり、優しい光が目に入る。
傘の黒い透かし部分には、マルファスとハルファスを象った烏の仮面が描かれていた。
――尻尾の所業はともかく、彼ら二人はエルカーズの神の中でも誰よりも慈愛に満ち、何より人の望みを正確に読むことのできる神だ。
あくまでも潜入の手段だが、彼らの演奏に応える為に、精一杯真面目に踊ろうという気が沸いてきた。
だが、今日はもう遅い。
せっかくの自由な一人時間に、何をしようかと考えながら目を閉じる。
(本を読む……酒を飲む……剣を磨く……身体を鍛える……一人チェス……?)
――何故だろう。
やりたかったことは色々あったはずなのだが、いざとなると、これといったものが思い浮かばない。
というより、一人でいた時にどんな風に過ごしていたのか、全く思い出せないのだ。
頭に浮かぶのは、アミュがやってきてからの、衣食住すべてが滅茶苦茶にされた日々ばかりだ。
ベッドに潜り込んでくる体温や、朝目覚ましがわりに噛みつかれる痛みや、出す食べ物を次から次へと食べてしまって、終いには帰ってきたら机が無くなっていた時のこと……。
幸い、本は無事なままでペッと吐き出されていたので、事なきを得たのだが――。
「ふっ……」
思い出し笑いをして、最後に大きな溜息をついた。
どうしようもないほどに、あの奇妙な生物に生活の全てを侵略されていた自分に……。
神々との旅を始めてから、早くも二週間が過ぎた。
早朝、ヴィクトルは軍服のズボンだけを身につけたままの姿で密かに自分の天幕を出た。
魔法の庭の鮮やかな緑は美しい露を帯び、朝日の下で輝きを帯びている。
素足で木々の中に分け入ってゆくと、その奥に丁度いい深さの小さな泉が湧いていた。
昨日はこんな場所に泉はなかった。
恐らく、そろそろ水浴びがしたくなったヴィクトルの望みを双子の神が読み取ったのかもしれない。
水浴びをするのに丁度いいような深さのそれは、鮮やかなプルメリアの花々に囲まれ、底が見えるほどに透明で清らかだった。
静かに近づいて屈むと、澄んだ水面に、もつれた黒髪と猫のようなつり目の自分の顔が映る。
昼間は過酷な旅をし、夜はずっと踊っているせいか、少し痩せてしまったような気がした。
軍服のズボンに手を掛けて脱ぎ、下着も取り去って全裸になって、清涼な泉に足先を付ける。
「ふーっ……」
冷たさに身体を慣らしながら腰まで浸かり、歩いて奥まで進んだ。
冷たさで一瞬肌の感覚がなくなるが、徐々に慣れてゆく。
水の中でかがみ、泳ぐようにして仰向けに身体を水に浮かべ、目を閉じる。
休養の時間なのに、頭の中には昨夜、片言の双子達とどうにか話し合った、踊りのことが浮かんだ。
小道具は剣が良いとか、薄布が良いとか、もはや二人は当初の目的はそっちのけだ。
南部の都ラーンを目の前にしたいま、ヴィクトルと双子の技は、当初とは比べ物にならない出来になっている。
楽師の一団としてもかなりサマになってきているように思えた。
(……双子は完全に趣味の領域だからな。俺は、任務を忘れないようにしねえと……)
普段はそう思うのに、踊る母の姿を記憶の中に描きながら、自らの肉体をそれに重ねていくたび、母が生き生きと自分の中に蘇るようで、踊ることは純粋に楽しかった。
――何より、その間は何も考えずに済む。
納得がいかない苛立ちも、自分の中に植え付けられた悩ましい想いも、全てを。
(そういやアミュ……あいつ、一人だけずっと不機嫌だな……)
話し合いの背景に居た、アミュの姿を思い出す。
よほど飢えが酷いのか、紫の目を野獣のようにギラギラさせてこちらを見ていた。
(……自業自得だ)
水面の中に再び立ち上がり、腰を折って、ヴィクトルは黒髪を洗いだした。
この泉を出たら、軍服は一旦捨て、踊り手の扮装をしなければならない。
ひさびさに髪を整え、手足の毛もどうにかしなければならないだろう。
天然で波打っている髪は、水に浸かるとまっすぐになり、額と頬に貼りついた。
それを両手でかきあげた時、ふっと視線を感じ、手を止める。
気配を感じる方向をちらりと見ると、草むらの中に紫の目が二つ、光っていた。
「!」
草の間に、白い触手がユラユラしている。
――アミュだ。
覗くんじゃねぇ、と言ってやろうかと思ったが、やめた。
ここ二週間、汗ばんだ肌や扇情的な動きを見せられるだけ見せつけて、何一つ相手をしてやっていない。
裸を見せてやるくらいなら慈悲の範疇だ。
無視して泉に浸かっていると、紫色のつぶらな瞳が燃えるような視線で自分の身体を舐め回してくる。
自分の全てを侵食するようなバアルの愛撫を思い出して、ドキリとした。
『ヴィクトル、愛している……、お前が欲しい』
低く甘い、囁くようなあの声も、もうずっと聞いていない。
何故だかゾクリと下腹が疼いて、ふと目を落とすと、冷たい水の中にもかかわらず、自身が完全に勃起していて、反射的に覗きに対し背中を向けた。
恐らく、疲労から来るものだろうが、間の悪さと言ったらない。
そういえば、毎日踊りで疲れ切ってベッドに倒れこむ日々で、ろくに抜いてもいなかった。
というか、溜まれば自動的にしゃぶりついてくる存在と暮らしていたので、自分で積極的に自慰をしようという気持ちをすっかり忘れている。
(あいつがあんなに見てなかったら、ここで抜いてやるのに……)
まるで監視されているような気分だ。
いや、今まではいつもそうだったのだけれど――。
「……っ」
困惑のまま、屈むようにして顔の下半分まで水の中に入る。
そうしてアミュの視線から逃れ続けている内に、結局、ヴィクトルは下半身が萎えるまで冷たい泉の水に浸かり続ける羽目になってしまった。
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