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さて、目を閉じた侍の鼻先に、芳香が漂った。ついでに、ひらりと薄絹の感触も触れる。
侍は目を閉じたまま、石の上に置いた刀を片手で手繰り寄せた。だが、相手は更に大胆になり、座禅をする侍の膝の上に羽根のような体重を降ろしたのだった。
「退け」
ついに、侍は言葉を放った。
この夜更けに、女が膝に乗って来るということは、春を売るつもりだろうか。
「他を当たれ」
と、若侍は言った。
彼は幼い頃から、妻を迎えるまで異性に触れることは罷りならんと言われて育った。
それは、彼の郷中の男全員がそうだった。
己の欲に負け、女に触れてしまった若い衆が、恥を問われて腹を切ることもある。
相手は、真綿のような柔らかさのくせに、強情だった。若侍の膝から降りようとしないばかりか、首に手を回したようである。
吐息の流れが口元をかすめ、若侍は脂汗をかいた。己の激情を鎮めるために、咄嗟に読経を始めた。
般若心経を唱える口元に、女のようなものは顔を寄せたようである。細い髪の毛が若侍の首筋から胸元にかかった。ついに読経の声は怒鳴り声に近くなった。その時、膝の上の相手は、くくくと声を立てて笑ったのだった。
「恐ろしいのですか」
と、優しい女の声で、それは言った。
若侍はますます大声で経を唱えた。
「住職が起きてきますよ。そして、これを見られてしまいますよ」
女の声は楽しむように言った。
侍はそれで、声の大きさを落とした。自分に非はない。だが、座禅石の上で女を抱いている姿を人に見られるくらいなら、切腹する。
現に、侍の身体はかっかと熱くなり、人には言えない情が沸いていた。
経を唱える声は次第に小さくなった。それに従って、膝の上の相手の体重はどんどん軽くなるようだった。首に巻きついた優しい腕の感触は薄れてゆき、今、自分の膝の上に本当に女がいるのかどうかすら怪しいほどだった。
しかし、馥郁たる香りは未だ濃厚である。
そこに、確かに、いる。
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