石の上

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**  侍は貧しい下級武士の家に生まれた。長男であり、最初から相当の期待をかけられていた。  たくさんの弟や妹が彼の下にはおり、彼等をよく可愛がり、面倒を見てきた。郷中の教育の中で、彼はまもなく頭角を現した。学問だけではなく、その生真面目で公平な性格が人望を呼んだ。仲間たちも、きょうだいたちも、皆から彼は慕われた。  弱い者を守り、強い者に対しても、おかしいと思うことは真っ向から物を言うのが彼である。  自分に厳しい男である。  だが、その反動のように、感情の振り幅が非常に激しく、それを抑えるのに毎回苦労していた。  時折彼は、人を殴りたくなった。殴るだけならまだしも、抜刀したい思いを抑え込むことすらあった。  彼の仕事仲間の中には、農民から賄賂を取る輩も多かった。卑劣なのは同僚だけではなく、上司もそうだった。  若侍は、日に何度となく、握りこぶしを固めて衝動を抑えた。歯を食いしばり、目を閉じた。耳には、嘆く農民の声が常に響いていた。  俺が何とかしたい。  という思いが、彼を苦しめた。苦しい彼は、夜ごとに家を抜け出し、座禅石の上に逃げるようになった。  この石の上にしか、安らぎがない。  (だが、こんなことがあるならば、もうここには来られまい)  禅を組み続ける若侍の膝には、確かになにかが乗っている。  不思議なことに、先ほどまで感じていた体温や重みは薄れていたが、官能をそそるような香りは未だ漂っている。そして、髪の毛が袂の中をくすぐるような感覚もあった。時折、ふわりと吐息が頬にかかり、首筋に流れるのも感じた。  脂汗が額から鼻筋を通って顎から落ち、目を閉じた彼の顔は赤らんでいた。  「欲しいのではないですか」  膝の上の変なものは、また喋った。  耳元で囁かれている。言葉と一緒に、ふわふわと吐息が首筋をなぞった。一瞬、膝の上の体重が生々しくなった。  「欲しくて当たり前なのではないですか」  また、幻は喋った。  彼は大きく首を横に振った。ぶるぶると振り回した頭は、もし本当に至近距離に誰かがいるのだとしたら、ぶつかるはずだった。  しかし、彼の頭は何にもぶつからなかった。  「禄が少なくて家族が飢えている。だから、何とか収入を増やすために農民から賄賂を受け取るのです」  ごとんと、彼の中で心臓が波打った。嫌なものを聞かされている。  「健康な体が欲しているから、娘を求めます。相手の娘もそれを望み、身を焦がしています。だから、通じるのです」  数日前、彼の郷中で姦淫の恥が公になり、皆から口を聞いてもらえなくなった男がいた。そのことを、若侍は思い浮かべた。考えるのも嫌な事だった。  「何が、悪いのです」    若侍の顔を伝う脂汗は、もう滝のようになっていた。息が荒くなり、今にも爆発しそうだった。    彼は、貧しい我が家を思った。  家族に腹いっぱい食べさせてやることができない自分の不甲斐なさを、思った。  相思相愛の娘と逢引をしたことが知れ渡り、村八分になった仲間のことを思った。    彼はいつも、自分は正しいことをしたいと願っていて、それが為の激情のはずだった。    「片方だけの正義しか見えないならば、片手落ちのことしかできないでしょう」    膝の上の者は、そう言った。
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