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世の中は「言わなくていいこと」と「知らなくていいこと」で溢れている。でも今の世の中はそんな些細な欲求を我慢をしなくていいので、インターネットの世界では毎日のように絶望が生まれ、火災が発生している。
女は知っている。そんな些末な欲求を満たすために現実に在る大きな欲望を不意にすることが、どれ程までに人生を不幸でつまらないものにするのかということを。
仕事終わり、オフィスとは違う地下鉄の駅前にあるいつものカフェで、女は事の顛末を同僚に言って聞かせた。すると同僚は「なんだ、そのユイって人、男だったんだね。よかったじゃない」と笑った。
「やっぱり、暴こうとしても碌なことがないわ。らしくないことをしちゃった」
「自分の料理の不味さも確かにショックだったけど、男相手に不倫されているのかと思って二度驚いちゃった」と情けなさそうに続けた女は、上品な仕草でコーヒーに手を伸ばした。
旦那の言っていたことはすべて真実だった。自分の作る料理がどうにも不味い、しかし旦那も料理だけはどうしても性に合わないので、ならば妻と同じくらい……いや、妻以上に稼いで、頻繁に外食をしても家計を支えられるようにしたいと思ったという。だから残業をしてでも仕事に打ち込んでいた。もちろん料理が不味いと素直に言わなかったのは、男の子供っぽい良心からである。
また、その仕事で言えば、プロジェクトリーダーになり現地に赴くことも増え、比例して出張は増えた。女は知らないが、最近の”よかったホテル”は会社が用意したビジネスホテルだ。
それから、同じプロジェクトチームのメンバーへの気配りも欠かさず、特に不安の多そうな新入社員の油井にはよく目をかけていたようだ。退勤後によく相談に乗り、飲みたいと彼が言えば断らなかった。
「ふふ。確かにあなたが作る料理は、不味そうだ」
「どういう意味?」
「性格が歪んでいる」
「ひどい。わたしにとっては、これは共生しうる感覚なの」
「一番に想う大好きな旦那がいながら、僕も愛することが?」
“そうよ”。そう言って女はやわらかく、優しく笑った。一般的に言えば、やっていることと吊り合いの取れないきれいな笑みだ。
「でも君だって、言葉を借りるなら、歪んでいるわよ。わたしを愛せるなら、何番目でもいいだなんて」
「そこが好きなんだけれどね」と静かに付け足して、女は伝票を取った。
カフェを出た二人は、夜に変わっていく街の中を肩を寄せて歩き出す。今の女には、これまで夕飯を作っていた分の時間が余っているのだ。
――愛しているわ。わたしの、たった一人の旦那さん。
女は同僚の男の腕を取りながら、心の中でそう告げた。
終
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