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「なんてことはなかったでしょう?」
カフェにとんぼ返りしたお兄さんが、席に座ってアイスティーを飲んだ後に言った。
「はい。私も、大げさに騒いじゃったみたいで」
ここ数日は、わからないことに対しての不安でいっぱいだった。だけど、ナゾが解けてしまうと本当にあっけない。
「……すごいです」
私は思わず、口からそう言葉が出ていた。
「何がですか?」
「お兄さんのように冷静に物事を判断して、数列を無闇に消さないでおいて、目の前の事実だけを手がかりにするやりかた……論理的というか、数学的っていうんですか? それがすごいと思うんです」
「確かに、数学的な物の考え方というのは、わからない世の中への不安を正しく払拭するためにあるといってもいいかもしれませんね」
「私や佐野くんは、わからないことにオロオロしてばかりだったのに」
「とはいえ、不安になるのも無理からぬことです」
お兄さんはアイスティーのストローから口を離した。
「女子高生たちのたわむれが結果的に店員さんの気持ちを大いに揉ませたことは事実なんですが、そこは目をつぶってあげましょうか」
お兄さんは静かに続ける。
「彼女たちにとっては、これもまた夏の思い出の一ページですから、それを頭ごなしに破いてしまうのはもったいない」
夏の思い出、という単語に、高校時代の思い出がぶわりと頭を駆け抜けた。
胸が甘酸っぱい。
青春している間ってあんまり周りのことが見えないけれども、それは大人の私たちが見守ってあげるべきなんだろう。得体の知れない数列を前に、そんな気持ちすら失っていた自分に気づく。
お兄さんとのナゾトキで、少しだけ人に優しくなれる気がした。
お兄さんが、きっと優しい人だからだろう。
「あの、お時間割いていただいて本当にありがとうございます」
「どういたしまして。今日からは夜に眠れるといいですね」
「あ、はい……でも、なんで夜寝られていないとわかったんですか?」
あれ、私、夜も眠れないって、言ったような言わなかったような……?
するとお兄さんは、自分の涙袋をなぞる仕草をした。
「くまが」
「えっ」
とっさに手で目元を隠した。
「すみません、よほどコンビニのことを心配なさっているようでしたから、つい」
「めっちゃ恥ずかしい……」
「お気を悪くしないでください。くまがあってもなくても、あなたはかわいいから心配ありません」
「え……?」
もう、どっちなの?
自覚があるの、ないの?
私を不安のどん底に突き落としたと思ったら、急に天まで突き上げちゃうの?
ずるいよ、お兄さん……!!
「じゃあ、私はこれで」
「あ、あの」
荷物を持って立ち上がったお兄さんを引き止めようと、椅子がぎいと鳴った。
「はい、なんですか?」
「お兄さん、ポーツ・ナッツはチョコクッキー味が一番好きなんですか? あ、あと……」
お兄さんの好みも、うっすら笑うとえくぼがでることも、学生時代理系だったことも、読書が大好きなことも、それ以上のことを知りたい。
テーブルに顔を近づける。言うなら今しかないんだ。
〝店員さん〟だからじゃなくて、私自身が、もっとお兄さんのことを知りたい!
「わ、私、美澄あかりって言います! お、お兄さんのお名前……教えてくれませんか!」
私の声が大きすぎたのか、お兄さんは一瞬固まってしまった
「ご、ごめんなさい……やっぱり気持ち悪いですよね」
するとお兄さんは「ふっ」と頬を綻ばせて、唇へ手の甲を当てた。
「いえいえ。気持ち悪くなんかないです。そうか……私としたことが、今の今まで店員さんに自己紹介をしていなかったんですね」
大変失礼いたしました、とお兄さんは居住まいを正す。
「私の名前は川畑秋雨と申します。『秋』の『雨』で、シュウ」
「カワバタ……シュウ、さん……」
お兄さんは流れるような目を三日月型に細めると、今までにないくらい眩しそうに微笑んだ。
「気軽にシュウと呼んでもらえると、嬉しいです」
〔夏:コンビニ裏の数列 了〕
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