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着替えと洗濯、寝所の掃除をすませた頃、雷烈が朝議を終えて寝所へと戻ってきた。
雷烈の姿を見た瞬間、星は思わず息をのんでしまった。
朝議用の龍袍に玉をちりばめた冠、腰の帯には翡翠の佩玉をつけている。昨夜や今朝の姿とは違い、高貴な威厳を漂わせているのだ。
「天御門星よ。これより後宮へまいる。わたしについてくるがいい」
「は、はい」
呆けた顔をした星に気づいていないのか、それとも後ろに従えた太監や宦官らの目を気にしているのか、雷烈は落ち着いた声で話している。雷烈の装いと振る舞いに圧倒されてしまう。
(鬼の血を引いていようと、私をからかって遊んでいても。雷烈様は庸国の皇帝陛下なのだわ)
本来ならば、言葉を交わすことさえおそれ多い方なのだ。
頭では理解していたはずなのに、雷烈の姿が遠く感じられた。
雷烈の後ろに従う形で後宮へと入った星は、すぐに違和感を覚えた。
(鬼の気配がするように思うけれど、なぜだか感じとれない。これはどういうことなの?)
理由はすぐにわかった。妃たちが住まう宮殿から香の匂いが強烈に漂っているのだ。
おそらくは妖を寄せ付けないよう、魔除けとして焚いているのだろうが、それでもこの匂いは異常に感じられた。
(待って、私でさえこれだけ匂うのなら、鼻が利くと豪語していた陛下は)
そっと皇帝の様子をうかがうと、雷烈は平静を装ってはいるものの、わずかだが顔をしかめているように思えた。香の匂いが苦痛なのだろう。
(だから陛下は後宮へ行きたがらなかったのかもしれない)
妃がいる宮殿に通い、夜を共に過ごそうと思っても、あまりに香の匂いがきついと安らぐことは難しい。昼間は政務で大変なのに、夜まで耐え忍ぶのはさすがの雷烈であっても負担になっているのだ。
「妃たちの様子はどうだ。病床の者が多いのか」
後宮を管理する宦官たちに話を聞きながら後宮内を進んでいると、とある宮殿の前で美しい女性が雷烈を待っていた。
「陛下、栄貴妃がご挨拶申し上げます」
皇帝への挨拶の後に顔をあげた栄貴妃は、花の香りを漂わせる艶やかな美女だった。白い肌と豊満な胸元を見せつけるような装いなのに、優雅な気品を漂わせている。
「陛下、なかなか来てくださらないのですもの。陛下をもてなす準備も万全ですのに」
うるんだ瞳で雷烈を見つめる栄貴妃は、上品な大人の女性の色気を感じさせる。
雷烈はまったく表情を変えてないが、近くにいる宦官たちは頬を赤らめている者までいる。
「すまぬな。政務が忙しい上に、妃たちが次々と病で倒れているので、その対応におわれているのだ」
「病で陛下をもてなせない妃は生家に送り返すか、冷宮に送ってしまえばいいのですわ」
にこやかに微笑みながら、恐ろしいことをさらりと言う女性だと星は思った。
「そうもいくまい。それよりそなたは何の問題もないのか?」
「はい。おかげさまで。いつでも陛下をお待ちいたしております」
「落ち着いたらまた行く」
「陛下ぁ……」
今晩の約束をとりつけられなかったからか、栄貴妃は不機嫌そうに口をとがらせた。拗ねる様子さえ、うっとりするほど美しい。
やがて栄貴妃は、後方にいる星に目をむけた。
「ところで陛下。あそこにいる貧相な男が和国から来た陰陽師とやらですか?」
「そうだ。わたしが招いたのだ」
「男を後宮に入れるのでしたら、宦官にしてしまいませんと。陛下はお優しいから命じられないのですね。わたくしが代わりに言ってやりますわ。あなたたち、そこの陰陽師をさっさと宦官にしておしまい!」
気品ある佇まいで残酷な刑罰を命じた栄貴妃に、星は血の気が引くのを感じた。
前にいた宦官たちが一斉に星の肩を掴みにかかる。男であることを捨てた身とはいえ、力は成人の男性と変わらず、星はあっさりと宦官たちに取り押さえられてしまった。
「やめよっ! ただちにその手を離せ!」
ひと際大きな声で制止したのは、皇帝の雷烈であった。
「陰陽師天御門星は、皇帝であるわたしが和国より呼び寄せた客人であるぞ。にもかかわらず、わたしの命なく勝手に捕らえるとは何事か!」
咆哮かと思うほどの雷烈の怒声に、星を捕らえていた宦官たちは震えあがった。すぐに手を離し、その場で叩頭した。
目の前で怒鳴られた栄貴妃も腰を抜かすほど驚いたようで、力なくしゃがみこんでしまった。
衝撃をうけたのは星も同じで、雷烈の迫力に体が凍りついたように動かなくなった。
雷烈以外、誰もがおそれ慄いている。
「すまぬ。つい大きな声をだしてしまった。少し疲れているようだ。栄貴妃も皆も、戻って休むがいい。天御門星よ。そなたはわたしと共にこちらへ。見てもらいたいものがある」
「は、はい」
雷烈に呼ばれたことで、ようやく体が動くようになった星は後ろに従った。
栄貴妃は女官たちに支えられ、自分の宮殿へと戻っていくのが見える。
(陛下があんなに怒るなんて。本気で怒らせたら、とても怖い方なのかもしれない)
皇帝ではあっても、星の前では柔和で優しかった。怒鳴る姿は見たことがない。
(私のために怒ってくださったんだろうか。だとしたらちょっとだけ嬉しいかも……。あら?)
星の前を闊歩していた雷烈が歩みを止め、苦しそうに息を乱し始めたのだ。
「陛下、どうなさったのですか!?」
慌てて駆け寄ると、雷烈はかなり辛い様子だ。
「大きな声をだすな。鬼の力が暴走しているようだ。後宮に入ると度々おこる……。星、すまぬが鬼の力を封じてくれ。あそこに無人の宮があるからそこへ……つぅ」
「わかりました。すぐに封印術をおかけします。立てますか?」
「ああ……」
ふらつく雷烈の腰を支えるように寄り添い、無人の宮の中へ入っていった。
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