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プロローグ
それは──ほんの一瞬のことだった。家族というものに恵まれなかった男が、やっと手に入れたささやかな幸せは、いとも容易く、砕け散った。
その男が幸せな家庭を持つことは、彼の願いでもあった。
橘冬馬が、マンションの一室の前に立ち、数分が経った。指先はインターフォンの辺りを何度も彷徨うが、なかなか押すことができない。数日前は、エントランスで躊躇して帰った。今日はやっとここまで来ることができたというのに。
(いつまで、こうしているんだ)
軽く舌打ちをする。一度大きく息を吐いて、インターフォンを押す。暫し待つが扉は開かない。
いない筈はない。返事はなかったが、エントランスの自動ドアは開いたのだから。ノブに手をかける。手応えなく扉がひらく。
(……あいた……)
一瞬躊躇ったが、静かに足を踏み入れた。細い廊下の、奥の部屋に進む。まだ陽の高い時刻だというのに、大きな窓はすべて蒼いカーテンで覆われ──仄暗い水の底を思わせた。
ソファーに深く身を委ね、宙を見ている男がいた。いや、何かを見ているわけではない。その眼には何も映ってはいない。
ただ、ぼんやりとしているだけだった──あの時のように。
ひと月前、石蕗秋穂の妻と幼い娘はこの世を去った。事故死だった。酒気帯び運転の車が、青信号を渡る二人を撥ね飛ばしたのだ。
──黒い服の列。囁き。啜り泣き。
その中で彼は、泣くでもなく、嘆くでもなく、ただぼんやりとしていた。それが余計に哀しみの深さを感じさせ、冬馬は遂に声をかけることができなかった。
「あき……?秋……穂?」
躊躇いがちに頬に触れる。
(やつれたな……)
二十八の男にしては、線の細い、儚げな姿。
頬に触れられ、初めて傍にいる男に気づく。秋穂はふんわりと微笑んだ。
「冬馬……来てくれたんだね」
暫く声を出していなかったのか、少し掠れていた。
「ああ……遅くなって、ごめん」
あの日から、ここに来るまでにひと月かかった。というより、最後にここを訪れてからは、もう一年以上過ぎている。
「お線香あげさせてくれ」
どこか気まずげに言う冬馬の顔を、秋穂はじっと見つめている。
「え……何……?お線香……?」
軽く首を傾げ、それからハッとした表情をした。
「あ、ああ、そうだね、そうだった……。彩香と沙穂に……。ありがとう、きっと喜ぶ……」
秋穂はソファーから動くことなく、視線だけでその場所を示した。
「──?」
まるで、他人事のようなそっけなさに、冬馬は違和感を覚えた────。
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