子どもとの記憶(回顧録)

2/6
前へ
/19ページ
次へ
 あるとき、息子をチャイルドシートに載せて車で麓の商店に向かっていたとき、声が聞こえた。なにもない山麓の田舎道であったがそれは確かに助けを求める声だった。仕方なく、私は車を止めて息子を抱えたまま外に出ると、一台の軽自動車が道から落ちてしまっていた。私は慌てて警察を呼んだ。  幸い運転手の老婆は足こそ折ってしまっていたが命に別条はなく、病院で私は彼女の家族に何度も御礼をされた。 「でも、よく見つけられましたね。あんな藪がしげった場所に落ちていたのに。」 「いや、あの耳がいいもんで。」 適当なことを言ったので、家族は皆呆気に取られており、老婆は酷く狼狽していた。私は息子もいるのでと帰ろうとしたとき、老婆はかすれ声で言った。 『ま、まちな、さい…!!』  それは声になってなかった。私にしか声として聞こえなかった。家族が慌てて止めようとした。 「おばあちゃん、無理して声出しちゃだめ!」 「すみません、母が何かを伝えたいようなのです。しばしお待ちいただけないでしょうか。」 そう言われて私は立ち止まり、老婆は私においでと伝えてきた。私が近づくと彼女は私の手を取りながら、優しい瞳でこちらを見つめていた。 『あ、あなた、サトリなんじゃな。この里ではたまにおるんじゃ。…これまで、さぞ難儀だっただろう。』  私は息が止まるかと思った。そして彼女は続けた。 『じゃが、サトリは必ずよき人に出逢えるのもまた定め。だから、必ず諦めないでほしい。』  私は思わず小さな声で、はいとつぶやいた。それを聴き、彼女はまた微笑んでくれた。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加