死の匂い

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静かな夜には死の匂いがした。死を感じさせる感覚が嗅覚だと、私は今まで知らなかった。 「ああ、死ってこんな匂いがするんだな。」 古く懐かしい場所の匂い。なぜか私にはそれが死の匂いだとわかった。急激に湧き上がってくる死の実感。それでもその懐かしい匂いのおかげか、私の心に恐怖はなく、今日の夜のように静かに凪いでいた。 「死ぬなら静かな夜に死にたい。」 自分が末期癌だとわかった時、なぜか一番初めにそう思った。自分の知る美しい死に方は皆、静かに死んでいく死に方だった。死にたいと思ったのではない。できることならもっと生きていた。でももし、もし死ぬなら、私は静かな夜に死にたかった。 世界は毎日うるさかった。私がどうなろうとも知らずに、今日も忙しなく大きな音を立てながら動いていた。 その時気づいた。生きるということはとてもうるさいことに。自分がこうなって初めて気づいた。生きている人間は皆うるさく、死にゆく人間は静かになっていくことに。人は赤ん坊の時泣くことしかできない。だからこそ自分の意思を伝えるために、物理的なうるささを使う。大人になったらそれは心理的なうるささに変わる。声は大きくないのに心を深く抉る声たち。都会の喧騒から逃げ出す人々。彼ら、彼女らはそんなうるささに耐えられなかったのだろう。今はそんな声たちが懐かしかった。 うるさいのは音だけじゃない。毎日人が行き交う交差点、繁華街のネオンライト、それらは皆うるさく見えた。人の活動で起きる、光、人の流れ。生きている人間が各々動き大きな流れを作る。それがうるささの根本だ。満員電車の中でぶつかる人肌、温度もまたうるさかった。人間の活動で出るエネルギーに晒されると人はうるささを感じるみたいだ。様々な感覚に訴えかけてくるうるささ。それは人間が活動している証。それは私が、相手が生きている証だった。 世の中の真理に気づいた気がした。皆静かな時に死ぬのではない。死にゆくから静かになるのだ。 私は今静かな夜に、静かな病室に、一人でいる。 「ああ、だから死って匂いで感じるんだ。」 音も、色も、光も、温度も、静かにそしてだんだん感じなくなっていく。ただ懐かしい死の匂いに包まれて、私は深い深い眠りについた。
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