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エレベーターのボタンを連打する音が空間にこだます。私は何をしているのか。身体が震えていた。ついでに足も。血の気が引いてどうしようもなく具合が悪くなる。一刻でも早くここから抜け出したい。誰でもいいから会いたい。
そんな言葉が脳内を巡る。しかし、いくら待ってもエレベーターは来ない。動いている気配はあるが、私をもてあそぶように行ったり来たりを繰り返している。もしこのまま来ないのであれば、諦めて島に続くエレベーターに乗り込むしかない。しかし、その為にはあの恐ろしい光景を目撃した場所を通ることになる。それだけは避けたい。私は無心でスイッチを押す。誰かに伝わると信じて必死に繰り返した。
「どうしたんですか?」
身体が跳ね上がる。反射的に後ろを振り返った。目線を下に向けるとそこに老人が佇んでいた。紳士風のシルクハットに黒い洋装。腰の曲がった小さな身体は枯れ枝のように細い。顎髭を蓄えた凛々しい顔から冷ややかな視線が注がれる。足音がないせいで全く気が付かなかった。寿命の縮む思いはしたが、人に出会え心の底から安堵した。
私は急いで先ほど見た事実を伝える。老人は怪しそうに眉をひそめていたが、最後まで話を聞いてくれた。
「早く上に行って警察に知らせないと」
自分でも論調が昂奮しているのが分かる。老人は私をなだめながら落ち着ける場所まで案内してくれた。
先程は暗くて気づかなかったが、エレベータの近くに休憩出来るスペースあった。ある程度広い。スクリーン程の大きなガラスが一枚ある。それ以外は特に変わったものはなく、ソファが幾つか据えられていた。
中央のソファに腰を下ろし、私は両手で顔をさする。なんだか余り落ち着かない。ガラスが大きい分、想像力が働いてしまう。巨大な生物の目玉が覗いてる気がして少しゾッとした。
「自分の姿と見間違えたんじゃないのかね?」老人は疑いの眼差しを向ける。
確かに逆の立場だったら私も疑っていただろう。いや、疑いさえしなかったかもしれない。
「あれは間違いなく人間です。正確には判別出来ませんでしたが多分女性です。それと首に縄の痕があった気がします」
老人は暫く黙ったままになる。そう、彼女の首には醜悪な痕があった。普段生活していてあんなものは付かないだろう。となれば彼女は何者かに殺された事になる。そして誰にもバレない深海の底へと捨てられたのだ。
考え出してからまた恐ろしくなってきた。私は一旦別の問題に話題を変える事にする。
「しかし、何故エレベーターは止まらないのでしょう。故障でしょうか」
「いやはや、分かりかねますな」
どこか余裕のある笑いだった。老人はこの状況に対してあまり危機感を持っていないらしい。やはりまだ信じてくれないようだ。
「貴方もエレベーターが来ないと困るのではないですか?」
「確かに困りますな」老人は悠長に喋る。
「まぁ、時間が解決してくれるでしょう」
楽観的な意見である。私の見たものが真実なら、どこかに殺した人物がいる事になる。今にでも包丁を持った人物がエレベーターから現れたらどうするつもりなのだ。
先ほどから余計なことを考えてしまう。小さな恐怖は時間が経つにつれ私の中で広がっていく。私は遂には辛抱堪らなくなり立ち上がった。
「私には待っていられません」
「どこに行くのですか?」
「もう一つのエレベーターに行きます。そっちの方は正常に動いているかもしれません」
ここで慄いているよりは動いていた方が遥かにマシである。私は固く拳を握り、休憩スペースを後にした。
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