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深海にある遊歩道。そこに行くことになったのは、特に重大な理由があった訳ではない。日々の生活が味気なくスリルに欠ける。たまには非日常を体験したいと感じ出かける事にしたのだ。
飽き性な私にとって面白そうだと期待を向けるのは辛い。いずれ来る退屈が私を蝕み、このまま死んでいくのかと落胆してしまう。他の人々は楽しそうに人生を謳歌している。深め合い、笑い合い、愛し合っている。
どれも私には難しい。飽きずに真似できる事はせいぜいこうして旅をする事だ。そうする事で少し心が安らぐ。暗澹とした気持ちから解放されるのだ。手短に支度を整え、私は車を走らせた。
その建物は辺鄙な海岸沿いに経てられいるにも関わらず結構な車が止めてあった。一世を風靡したこの施設。当初の人気は凄まじく、5時間待ちも珍しくないと昔ニュースで見た。世界初の試みであったことから各国の著名人も訪れ相当な賑わいだったらしい。今となっては廃れたが、歴史上貴重な場所である事に変わりない。
入場し受付上にチケットを貰う。受付上が指差した方に向かうと一際目立ったエレベーターが現れた。どうやらこれで深海まで行くらしい。遊歩道の先は離れ島に繋がっている。森林浴で有名な温泉があり、とても評判がよい。静かな森を観ながらゆっくり寛ぐのも乙だろう。そう考えると柄にもなくワクワクしてきた。今までと違う新しい可能性に胸をときめかせ、私はエレベーターに乗った。
かなりの車が駐車場に止められていたが、エレベーターの中は私一人だけだった。昔、どうしてこのエレベーターが深海の圧力に耐られるのか解説していたが、忘れてしまった。どんどんと下に沈み、身体に圧力がかかる。機械の歪む不快な音は軽快なポップ音のおかげで緩和される。不安があるとすればエレベーターが潰れたり止まったりしないかであるが、暫くするとその心配もなくなった。
私の予想よりも早くエレベーターは開いた。そこは一瞬にして別世界。両面ガラス張りで覆われた道。天井に埋め込まれた丸いライトとカーペットが延々と続いている。まるでトンネルだ。エレベーターが閉まるとなお、その暗さが染みる。目を凝らしても先の見えない暗闇は、僅かに光はあるものの、奥で物騒な事が起きたとしても気づかないだろう。無音の中、ぼやけた光を頼りに進む。カーペットに足音が吸い込まれ、存在自体があやふやになっていく。
私は気を紛らわせるために深海に目を向けた。旅に出る前は水族館みたいに水中の生物が眺められると思っていたが、近づいて見えるのは自分の顔だけだ。人気がなくなる訳である。客を楽しませようとする工夫がまるでない。ここで待てば深海の生物が見られるのかもしれないが、そんなに暇な人間は数えるほどしかいないだろう。話題になったからと言って、ろくに調べもせず選んだ自分を呪った。これも旅の一興とポジティブに捉えることもできるが、今度から事前に調べることにしよう。
そんなこんな中盤まで差し掛かった頃だろうか。何処かからフローラルの香りが漂ってきた。しかし妙である。この匂いはどこか狂っているのだ。香水は誰かを魅惑する為に使う。なのにこの匂いは量が多いのか脳にくる。
ふらっと足元がもたつき転びそうになる。慌ててガラスに手をついた。冷んやりしたガラス越しに私の顔が映る。映る筈だった。
私の顔と重なるように誰かの顔が覗き込んでいる。男性なのか女性なのかはっきりしない。唯一確かなのは死んだ魚のような目と首元に痣がある事だった。
それを見て私はどうしたかいまいち記憶がはっきりしない。気付いた時には、もうエレベーターの前だった。
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