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「どうして、あんなことを言ったんですか」
車の窓を少し開けて、潮騒をBGMに静かに車を走らせていると、後部座席から楓子が聞いてきた。声に力がないが、ミラーで顔を見ると、予想以上にしっかりとした顔つきをしている。
「木野さんこそ、あの状態の鈴原から逃げるのは難しくなかったのに、逃げなかったのはどうしてですか?本当は分かっていて、されるがままになっていた。そうでしょう」
「……」
黙り込んだ楓子をミラー越しに見ながら、自分が鈴原に向かって言った台詞を思い出す。
「鈴原、お前がどんな秘密を抱えているか知らない。探るつもりもない。ただ、木野さんは一時的に預かる。必ず返しに来るから、もう演じる必要はない」
波の音を聞き、鈴原の顔を、その頬を伝った涙を思い浮かべる。
鈴原は確かに、詐欺師だったのかもしれない。それまで何人騙し、金を奪ってきたのかは分からない。それでも、あの顔を見た瞬間、自分と似たものを感じた。その瞬間までは、鈴原はただの悪人だと思っていたが、あの目は、あの顔は、自分を騙し続けている人間そのものだった。
愛する相手を騙しながら、自分をも騙す。本当は全てを打ち明けてしまいたいのに、相手に受け入れてもらえないのが恐ろしくて、偽りに塗り固められていても幸せだった時間に縋りつく。それしかできなかったのだ。なぜなら。
「高藤さん」
思考の波に飲まれていたのを、楓子が呼びかけて引き戻す。
「何ですか」
「私は高藤さんが好きです」
楓子の告白は、失いかけていた何かを思い出すような温かさがあったが、一瞬で空気に溶けた。
「ありがとうございます」
敢えて返事はせず、礼を言うだけに留めると、溜息が聞こえた。
「それだけなんですね。高藤さんも、ほんの少しは私が好きだった。そうでしょう?」
「でも木野さんは、鈴原のことを忘れられなかった。そうでしょう?」
わざと口調を真似ると、するりと後ろから伸ばされた楓子の手が、頬を軽く抓り、唇を撫でてきた。
「最後に一回、この唇にキスをさせて下さい」
答えようとしたところで、真也のスマートフォンが着信音を鳴らし始めた。楓子の手が離れていく。
車を路肩に停め、画面を確かめると、知らない番号からだった。予感を胸に電話に出る。
「はい」
「初めまして、かな。さっき時芝から連絡をもらって、かけさせてもらった。朱海の旦那さんなんだって?」
やけに親し気な口調で、まるで以前からの知己のような錯覚を覚えそうになる。
「……隆平、か」
「ああ、うん。今は隆平じゃなくて、違う名前を使ってるけどね」
「やっぱり、お前も詐欺師なのか」
単刀直入に聞くと、電話越しに笑う気配がした。
「人聞きが悪いなあ。騙される方が悪いのであって、俺は何にも悪くないよ」
それに、と隆平は楽し気に続ける。
「朱海は俺らと同じ、なんだからね」
その言葉を耳にした途端、やはりと納得する反面、内で咲き誇っていた赤い花が、ついに食虫植物のように自分を飲み込んでいくのを感じた。
「朱海の日記を見たんだ」
「うん?」
「朱海の部屋中に飾られた、お前の写真も、敷き詰められた赤い花も」
「……」
隆平が、何かを呟く声がした。それが何なのか聞き返そうとは思わずに、ただ言葉を
重ねる。赤い花が視界を覆い尽くしていく中で、氷のように酷く冷めきった自分の声だけが響いた。
「朱海は、俺をずっと騙していた。……いや」
口から、奇妙な音が漏れる。喉を震わせ、腹部を揺さぶるそれは、笑いだった。何も可笑しくないのに、笑っている。笑いが止まらない。
「朱海は俺を騙していたつもりかもしれないが、全然騙しきれていなかった。お前をずっと愛しながら、夜ごとお前の名前を呼んで、日記にお前への愛憎を書き殴って、書き殴り続けて、そうやって抑えつけながら俺との夫婦ごっこをしていた。そんなのはどこかでずっと分かっていた。朱海がおかしくなった原因も、おかしくなった理由も分かっていながら、俺はずっと朱海を手放したくない一心で見て見ぬふりをしていた。おかしくなった朱海に傷つけられながら、責められながらも、自分の愛に酔っていたのかもしれない。朱海とともに一緒に堕ちていくのが償いになると自己満足に浸っていた。俺も朱海と一緒に壊れていけばいいのだとも思っていた」
なぜ、こんな話をこの男にしているのか分からない。分からないが、言葉が止まらなかった。
「それで?高藤真也だっけか。あんたはどうしたいの。俺を」
殺したいの、という台詞が耳にきんと響いた。口から絶えず零れていた言葉が、笑いが、ぴたりと止まる。
脳裏に、朱海が赤い花に埋もれている姿が浮かぶ。とても美しい花だ。朱海は眠っているように見える。手を伸ばし、触れると、朱海の唇が動く。
「ねえ、真也。私、あなたを愛してる」
嘘だ。
「嘘じゃないよ。だから、こんなに一緒にいたじゃないの」
嘘だ。お前は、俺を騙していた。本当に一緒にいたかったのは俺じゃないだろ。
「何言ってるの。私はずっと真也を愛していた。隆平を愛していたこともあったけど、結婚したのはあなただし、結婚してからはずっとあなただけを愛していた」
嘘だ。じゃあ、なんで一緒に死んでくれなんて。あの日記は。
「日記はあなたに会う前のことしか書いていなかったでしょ?死んでほしいのは、あなたを愛しているからこそよ。私と本当の意味で二人きりに、幸せになりたいでしょ?」
本当なのか。
「本当よ。だから、ほら」
こちらへおいで。
朱海に手招かれる。誘われる。
手を、伸ばす。
「……いや。俺は誰も殺さない。ただ、朱海を解放するだけだ。俺は朱海を自由にする。朱海は俺から自由になって、お前の元へ行く。お前が朱海をどうするかなんて、俺の知ったことではない」
そうだ。知ったことではない。
心の中で繰り返し呟き、通話を切ろうとして、問いがつるりと溢れた。
「朱海の居場所は知らないか」
「……知らないな。朱海の居場所を知ったら、あんたはどうするの」
「ただ、離婚を言い渡すだけだ。役場に提出するのに、朱海のサインがいる」
ふは、と隆平が笑った。耳障りな笑い声だが、隆平が笑うのも分かる気がした。
「じゃあね。もう連絡することもないだろうけど」
そのままぷつりと通話が途絶えた。この番号に折り返しかけたところで隆平は出ないだろうし、番号そのものが隆平のものかどうかも怪しい。
一気に疲れが押し寄せ、深い溜息を吐いた。ハンドルに突っ伏すと、肩をぽんと叩かれる。
「高藤さん」
「ん?」
顔を上げると、楓子が何とも言えない顔つきで覗き込んできていた。
「本当に、いいんですか?ごめんなさい。出ているべきかなとか思いましたが、電話の内容聞いちゃいました」
「いいって、何がです?」
「だから、あの。朱海さんと離婚するって話です」
「話を聞いていたなら、分かるんじゃないですか?俺たち夫婦は、ずっと騙し合っていたんです。お互いに、相手のためじゃなくて自分のために。そんな夫婦が、今からやり直そうとしたって無理なんですよ。全部、白紙に戻すしかない」
「……本当に?」
楓子が不安そうな顔で聞いてくる。
「え?」
「本当に、そう思っていますか。高藤さんは嘘をついていませんか」
嘘。これ以上何の嘘をつけばいいのか。
「木野さん」
「はい」
「俺はたぶん、もう一度朱海に会ってしまえば……。もう、元には戻れない。そんな気がしてならないんです。だから、一つだけ俺の願いを聞いてくれませんか」
「私にできることであれば」
真面目に返す楓子に微笑みかけ、ただ一つの願いを口にする。
「俺がもし突然いなくなったら、探しに来て下さい。そして、張り手でもなんでもいいから、見つけた時は目を覚まさせて下さい」
「高藤さん、何をするつもりなんですか。すごく嫌な予感がするんです。お願いです」
やめてください、という楓子の唇に手を当て、言葉を止める。そして、楓子が先ほどしたのと同じように、ゆっくりと撫でた。
「木野さん。俺、もし朱海じゃなくてあなたと結婚していたら、もっと違う人生を生きていたかもしれない。本当はずっとどこかで望んでいた。平凡で、温かい幸せな生活を、あなたとなら送れたかもしれないって」
「高藤、さん……」
「でも、俺は朱海と結婚して、愛し続けた。世間一般の愛とは全く違う、歪んだかたちだったかもしれないけど、朱海と俺は愛し合っていた。愛し合っていたと思っていた。全部を嘘にしたくなかった。少しでも真実があってほしいと、探し続けて」
知らず、目に涙が滲んでいた。堰を切ったように溢れ出す涙は、誰のものではない、誰のためでもない、自分のためのものだ。
堪え続けていたものが、決壊する。もう、止めることはできなかった。何もかも遅いのだ。遅すぎた。
「高藤さん、嘘なんかじゃないですよ。全部が嘘なはず、ないです。本当は早まらないでって止めるべきなんでしょうけど、私は高藤さんの選択を見守ることにします。その先にどんな未来が待っていようと、見届けます。だから、いなくなっても連絡をして下さい。それだけは約束して下さい」
ね?と囁くように言う彼女に、微かに頷いて見せた。
外では、昇り始めた太陽がゆっくりと街を照らし始めている。海面に反射した陽光が眩しくて、目に沁みた。
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