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楓子を改めて鈴原の元へ送り届け、一人になると、途端に酷い眠気に襲われた。全力疾走をした後のような倦怠感がどっしりと肩に伸しかかる。額に手を当てたが、熱があるわけではない。
だが、それもそのはずだ。一体いつから十分な睡眠と食事を取っていないのだろう。ほとんど食べないのが当たり前になったせいか空腹感はまるでなかったが、眠気には逆らえなかった。
自宅まではまだ距離があるが、車の通りが少ない狭い道路の路肩に停め、運転席を倒し、そのまま仮眠を取ることにした。
眠りに落ちる感覚は、水の中に潜っていく感覚に似ている。波間に漂う小舟のように頼りない心地で現実と夢の狭間を行き来しながら、次第に深く潜り込んでいった。
気が付けば、深い霧の中に立っていた。衣類を濡らすほどの湿気が、生々しく全身を覆っている。
辺りを見回しても、誰もいない。鬱蒼と生い茂る草と、森のように立ち並ぶ木々があるばかりだ。
自分の鼓動が、ゆっくりと、着実に速さを増していく。その理由を知っているが、知りたくない。何も見たくない、何も見ていない。
目を閉じ、耳を塞ごうとする。でも、体は思うように動かず、勝手に前進し始めた。
「やめろ、やめてくれ」
自分の声が、息を吐き出すだけの音のように頼りなく、酷く掠れていた。
足が、自分の意思に反して、奥へ奥へと進み、ある地点でいきなり動きを止める。自分の息遣いばかりが耳に付いていたが、ふいに頭上高くで何かの鳥が甲高い鳴き声を発した。
それと同時に、唐突に目の前の光景が開けて、暴力的なまでの赤が現れる。
赤い、一面の花の群れだ。そして、その中心にいたのは。
「あ、けみ……」
人形のように美しい女が、朱海が眠っていた。
「朱海」
駆け寄り、その体を抱き上げようとする。しかし、手は空を掴んだ。手のひらを見ると、赤い花弁がたくさんついている。いや、これは花弁ではない。これは。
自分の叫び声で飛び起きた。
荒く息を吐きながら、額に浮かんだべっとりとした汗を拭う。
「また、あの夢か」
しかし、以前見た時とは状況が変わっていた。今度は朱海が。
乱れた鼓動を落ち着けようと、一つ深呼吸をして、外に目を向ける。日が眠る前よりもずいぶんと高く上がっていた。
エンジンをかけながら時刻を確かめると、もう正午に近い時間になっていた。悪夢を見た割に、かなり眠っていたらしい。
「朱海」
声に出して彼女の名前を呼ぶと、なあに、真也と答える声がした気がした。むしろ朱海より、真也の方がおかしくなっているのかもしれない。
車をゆっくりと走らせ始めながら、これからのことを考える。楓子が言っていたように、全てが嘘ではないと信じたいが、もう、信じることもできなかった。
それに、と隆平に吐き出した自分の本心を思い返しながら、改めて思う。今さら、全部遅すぎた。引き返す時期はとうに過ぎた。行き着く場所は、一つしかない。
そこに辿り着いた時、楓子に頬を叩いてもらえればいい。いや、本当は、頬を叩かれるだけでは済まないし、一生深い闇を彷徨うことになるだろう。
それでも、どこかで安堵している自分がいた。やっと、この結論に至れたのだと。
「真也、ねえ、やっと来てくれたのね」
朱海が囁き、喜ぶ声がする。これが幻だと分かりながら、そっと返事をして、車を走らせ続ける。
「朱海、待っていろ。必ず迎えに行く。そしたら、俺はお前を解放してやる。だから、お前も自由になれ」
窓を開けると、いつか入って来たクロアゲハと同じような蝶が入って来た。その蝶は、風に煽られながらも、なかなか外に出て行こうとはせず、真也の左手の人差し指に止まった。そして、そのままじっとしている。
「お前、あの時の蝶か」
自然と呼びかけてしまうと、蝶は応えるように羽をひらつかせ、飛び上がって窓から出て行った。
それから、どれくらい車を走らせただろうか。どこか決まった目的地があったわけではないが、海とは反対方向に向かい続ける。あの夢の映像が脳裏にちらつき、木へ、山へ、神社へと視線を滑らせていた。
「朱海」
再び、何かの呪のように彼女の名前を呟き、現れたトンネルをくぐる。どこまでも続くかと思われるほど、長いトンネルだ。右へ左へと曲がりくねりながら、真也をどこかへと向かわせる。
もう二度と外へ出さないつもりかと思った時、目の前にぽつりと白い穴が現れ、次第に大きくなっていき。
気が付けば、山の中腹に来ていた。道路が急に途絶え、いきなり山だ。振り返ると、車は一台も来ていない。看板はなかったようだが、皆、この道がこうなっていることを知っているのかもれない。
引き返そうと思ったが、その思考とは裏腹にエンジンを停め、車のドアを開けていた。途端に仄かに香っていた匂いが一気に押し寄せてくる。草木の匂いだ。
車から降りて、地面に両足をつけて立ち上がると、一陣の風が吹き荒れ、唸り声に似た音を立てた。真也の侵入を阻んでいる気がしたが、一歩、二歩と逆らって進むうちに、嘘のように静まり返る。
山の入り口に足を踏み入れると、雨でも降ったのか地面がぬかるんでいた。立ち上る香りがきついのもそのせいかもしれない。
一瞬、早まらないでと言っていた楓子の顔が浮かぶ。しかし、瞬きを一つする間に掻き消えた。
濡れた土を踏む不快な感触と、時折聞こえる鳥の鳴き声、そして鬱蒼と生い茂る草木から漂う眩暈がするほどの匂いを感じながら、無心で山道を進んで行く。
目的地はない。ここに朱海がいると確信しているわけでもない。だが、なんとなく予感めいたものがあった。この先に、自分が求めているものがあると。
ひたすらに奥へ奥へと進むうちに、次第に日の光が差さなくなった。山の中だ。夜とは限らないのではないかと思い、時刻を確かめるが、午後9時になっていた。
一度立ち止まると、思い出したようにどっとした疲れが伸しかかってきて、進もうとしても進めず、近くの木に凭れかかってずるずると座り込んだ。
スマートフォンの充電も残り半分以下で、明かりもなくこれ以上進むのは無理だろう。そのまま息を吐いて目を閉じると、山にいるのを忘れるほど何の音もせず、すぐに眠りの底へ引きずり込まれていった。
珍しく、夢は何も見なかった。
誰かに呼ばれた気がして目を覚ますが、周りに立ち込めた濃い霧で人がいるかどうかも分からなかった。立ち上がると、衣類が水気を含んで体に張り付いている。
歩き出そうとして、既視感のようなものを覚えた。見たことがない場所と、初めての状況のはずが、既に経験したことのように思える。
首を捻りながら一歩踏み出し、その感覚がなぜ生じたのか理解した。夢だ。朱海の夢を見る時、決まって濃い霧の中にいる。その後の展開は毎回少しずつ違うが、夢の状況と似通っていると感じた。
あの夢は、正夢なのだろうか。だとしたら、朱海は。
嫌な考えに囚われながらも、前へ前へと進む。汗が噴き出し、酔っ払いのようにふらふらと右へ左へよろけながら、歩き続けた。もはや自分が何のために歩いているのか分からないが、歩みを止めるという思考には至らない。
「朱海」
虚ろな男の声が響くのに合わせ、顔を上げると、目の前に突然鳥居が現れた。塗りたてには見えないが、朱色をしっかりと身に纏い、天高く、堂々とそびえ立っている。
鳥居の柱部分には、聞いたことのない神社の名前が刻まれていた。それを何気なく写真に収め、保存してポケットにスマートフォンを仕舞うと、鳥居を潜って再び歩き始める。
足元に硬い感触がして、砂利が敷き詰められていることに気が付いた。神社の参道に入ったのだろう。
しばらく、砂利を踏む足音ばかりが響く。人気は全くない。霧も晴れる兆しがなく、一層濃くなっていくように感じた。
夢か現か、自分がどこに向かっているのか、何も分からないまま、ただ歩き続ける。すると、砂利の終わりに賽銭箱と社が姿を現した。
何も祈ることはないが、その社を束の間眺める。霧の中にあるからか、それとも今の心理状態からか、眺めていると背筋に怖気が走った。
「真也」
その時、くっきりと朱海の声がした。いつもの幻とは違う生々しい声だ。
「あけ……」
振り返ろうとしたが、首に違和感を覚えて動きを止める。首に、何か硬いものが押し当てられていた。ちくりと痛みが生じ、それが刃物だと知る。
「朱海、なんだな」
問いかけると、刃物が首の皮を薄く切る感触がした。
「ええ、そうよ。場所を言ったわけじゃないけど、真也なら来てくれると思っていた」
朱海が微笑む気配がする。心底嬉しそうに。
「朱海」
「ねえ、真也。覚えてる?私が出て行く前にあなたが言ったこと」
「出て行く、前……?」
「そう。あなたは私に言ったわ。もう少し考えさせてほしい。もし私の望み通りにするとしても、どうして私がこうなったのか教えてほしいって」
言われた途端に、その時のことが蘇る。あの時は、朱海にダーツの矢で刺されて、こう言われたんだ。
「私、分からなくなっちゃった。あなたと一緒に生きたいのか、それとも死にたいのか。……ねえ、真也。私が望んだら、一緒に死んでくれる?」
その言葉は未だに呪いのように自分を縛り、苦しめるが、同時に酩酊に似た奇妙な高揚感を与えた。
「思い出した?もう、私がどうしてこうなったか分かったんじゃないの?」
「どうして、こうなったか……」
朱海の言葉を繰り返した瞬間、頭の中で何かが弾けた。体が発火し、目の前が真っ赤に染まる。
「隆平」
赤い光景の中で浮かび上がる名前を掴み上げ、低く呟く。そして、喉に突き立てられた刃を伝い、その柄を掴んでいる朱海の手に爪を立て、力づくで捻り上げた。
カラン、と音を立ててナイフのような物が地面に落ちる。朱海は真也の手を振払おうともせず、凶器を失っても焦る様子も見せず、じっとしている。
「朱海」
「なあに?」
「お前は俺じゃなく、隆平を愛していたんだな。それは、今でもずっとそうなのか」
腕を離し、朱海と向かい合って立つ。問いかけながらも、既に答えは分かっていた。
朱海の目が全てを語っている。
「あら。そんなの、今さら気付いたの?そうよ、私はあなたと生活しながらも、ずっと隆平を想っていた。そして、いつか隆平が迎えに来てくれると信じていた」
「なら、どうして俺と結婚した」
朱海が、ふふっと馬鹿にするように笑う。
「そんなの決まっているじゃない。あなたを騙すためよ。結婚して、あなたの貯金を少しずつ貰うため。気付いていなかった?私、もう半年か、それ以上はずっと仕事をしていないわ。あなただけ働かせて、お金は私が搾り取っていたの。あなたが私に追い詰められながらも必死に働いている姿、最高だった」
頭が沸騰しながらも、思い返す。気付いていなかったわけではない。朱海はちょうどおかしくなった辺りから、いつも家にいるようになった。あれは、精神的に参ったせいで仕事を休んでいるのかと思っていたし、確かめようとはしなかった自分にも非がある。
もし、と思う。もし朱海が本当に心を病んでいたなら、責められるのは自分の方だったのだ。そう思いはするが、それは可能性の話で、今この時は朱海を責める立場にあるのは自分の方だ。
「じゃあ、お前が言っていた一緒に死んでくれとかそういう話は」
「ああ、その話?そんなの決まっているじゃない。あなたに先に死んでもらって、私は心中したふりして生きるのよ。そろそろ、私もこの生活に飽きてきていたから」
朱海は話しながら屈んで、凶器を拾い上げる。その刃がゆっくりと向かって来る。
「朱海」
自分の掠れたような声が、どこか遠くで聞こえる。
刃がやけにスローモーションで胸元へ刺さろうとしているのを見ながら、ふいに思う。
このまま死んでしまってもいいかもしれない。愛していた女に騙されていたのにも気付かず、偽りの幸せに浸っていた自分はとんでもなく滑稽で、惨めだ。それでも、その惨めな人生を愛していた女に終わらせてもらえるのなら。
「し……んや……」
朱海の苦し気な声が聞こえた気がして、ふっと我に返る。するとその途端、足元に硬質な音が響き、凶器が再び朱海の手を離れたのだと知る。
「し……」
また、朱海の苦し気な声がする。何が起こっているのか分からないまま、一歩ずつ社から離れ、朱海を連れて木々が立ち並んでいるところへ向かう。
ご神木だろうか。一つ、他より大きな木があった。その木へ、朱海を押し付け、力を込める。
やがて、だらりと弛緩した朱海が、一瞬真也を見て一筋の涙を溢し、そのままずるりとその場に倒れ込んだ。
「あけ……み……?」
じわりと掻いた自分の汗と混じり合い、どちらのものともつかなくなっても、身動き一つ取ることができない。獣のような荒々しい息遣いを耳元で聞き、隣を見やっても誰もいないことを知ると、そこでようやく自分のものだと気が付いた。
かろうじて動かすことのできた首が、また正面に向き直る。そして自分の意思に反して、再び足元へ沈んだ。
そこに広がる光景を認識するのを脳が無意識に拒むのか、見えてはいても何があるのか理解するのに時間がかかる。
頭上で羽ばたく音がして、何かの鳥が甲高い悲鳴じみた鳴き声を発した。その声が記憶の底にある誰かの声と重なり、混ざり、不協和音を発して責め立てる。
「やめろよ」
そう叫んだつもりが、何年も声を出していないように音にならず、ひゅうひゅうといった息ばかりが漏れ出た。
いつの間にか固く握り締めていた拳を開くと、手のひらに生々しい感触が蘇りかけ、鼓動が別の生き物のように暴れ狂う。
「ねえ、真也、どうして?」
ある女の声がねっとりと耳たぶを撫でる。まるで今囁かれたような錯覚に導かれ、唐突に眼前に広がる光景を理解した。
俯せに倒れて動かない女。短く切り揃えられた黒髪から覗くやけに白い首筋。そしてその首にできた赤い鬱血の跡。それはちょうど指の形をしており、自分の手とぴったり合わさるだろう。
なぜなら、この手で殺したからだ。
風が唸り声を上げ、怒りを撒き散らし、責め立てる。じっと立ち尽くすのもままならず、その場に膝から頽れてしまいかけた時、さあっと霧が晴れ、辺り一帯の風景が鮮明になった。
新緑の木々が森のように乱立し、木々の隙間から差した木漏れ日が女の体を浮かび上がらせている。その周囲は薄闇に包まれているだけに、まるで何かの安っぽい芝居のようだと現実逃避しかけた。
「そんなつもりじゃ、なかった。俺は、こんなことをするつもりじゃ」
これは、誰に向かっての弁解だろう。一番聞いてほしい相手はもう、この世にいないというのに。
それに、少しもこうなることを考えなかったわけではない。隆平に対する朱海の執着を知った時から、殺意は成長し続け、胸の内で咲き誇り、ついにそれに飲み込まれた。それだけなのだ。この結果は望んでいたんじゃないのかと囁く自分の声がする。その声が歪み、反響し、胸の内を真っ黒に塗り潰す。
「ああ、そうだ。俺は殺すつもりだった。これは当然の結果で」
一方で、あれだけ突き上げていた怒りが、殺意が、朱海がいなくなったと分かった途端、何もなかったように消え失せる。ただ残ったのは、とてつもない後悔と、罪悪感と、喪失感と。それらの相反する感情が荒れ狂い、半狂乱になる。
気が付けば、獣のような咆哮が耳を打っていた。それが自分のものだと認識できないまま、声が枯れるまで、喉が潰れても、叫び続ける。暴れ、髪を掻き毟り、木に自らの額を打ち付ける。何度も、何度も。
どれくらいそうしていただろうか。果てしない時を過ごしたかに思われた頃、ふいにスマートフォンが電子音を鳴らし始めた。電話に出る気力もなかったが、無意識に操作し、相手も確かめずに出ていた。
「もしもし、高藤さん?やっぱり気になって電話してしまいました。今、どこに……」
「……」
「高藤さん?」
楓子の声が、ほんの微かに温もりを与え、失いかけていた自分を取り戻す。今はもう、取り戻したくもないのだが。
「木野さん。俺は……」
妻を、殺しましたという自分の声が他人のもののように聞こえる。途端に込み上げてくる吐き気を堪えきれず、嘔吐し、電話を取り落しかけたところで、楓子の声がした。
「今から、そちらに向かいます。時間がかかりますが、必ず生きて、待っていて下さい」
「木野さん、俺は」
生きている意味なんて、と言いかけた台詞に被さるように、楓子は言った。
「とにかく、何が何でも待っていて下さい。絶対ですからね。居場所についてはメッセージで教えて下さい」
いつになく強い口調で言い切られると、ふつりと通話が途絶えた。働かない頭で、言われた通りに機械的にメッセージを打ち、先ほど何気なく撮った写真を送る。
しばらくそのまま、放心状態でしゃがみ込み、朱海の体を見つめ続けていた。身動ぎ一つせずに、ただひたすらに見つめ続けてどれぐらいたった頃か、明らかに風の音ではない草地を踏みしめる音がした。はっと振り返り、相手を確かめると、何故か酷く安堵を覚えて息を吐き出す。
そして、相手と長いこと視線を交わし、絡み付く糸をそのままにしながら、口を薄く開いた。
「木野さん、俺」
その後に続く言葉を失っていると、楓子は足早にこちらへ近付いてきた。恐ろしく、無表情で。
ついに真也の目の前に立った楓子は、真也の腕を掴み、無理やり力づくでその場に立たせる。頬を、叩いてくれるのかと思った。怒鳴り散らしてくれるのかとも思った。そうされることで償いになるわけでもないが、そうしてほしいと思って。
しかし、楓子はそのどちらもせず、真也の唇にそっと口付けた。まるで何かの誓いか、慰めのように、優しく、触れるだけの。
あれだけ荒んでいた心に僅かな熱が灯った気がした時、楓子は真也の頬を撫で、囁いた。
「高藤さん、行きましょう」
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