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 カラン、と小気味いい音がして、潮騒のようにクラシックの音が近付いてくる。ぼんやりとグラスに注がれた透明な液体を眺めると、波打つ水面に青白い自分の顔が映ったような気がした。 「真也」  女の声がするりと耳たぶを撫で、目の前に血のように赤い唇が浮かぶ。しかし、すっと視線を滑らせると、唇は淡い橙色をしていた。 「真也」  しっかりと脳に刻み付けるように再度呼び掛けた朱海は、長い指先を横に向けて指し示す。促されるままに目を向けた先には、異国の血が混じっていそうな彫の深い面立ちの男が立っていた。  能面のような何の色も浮かんでいない顔で、沈黙を守ったままメニュー表に目を向け、真也の顎か肩先に視線を移す。そこに何か気になるものがあるように、じっと当てたまま逸らすことはない。  もしかしたら、言葉を発するよりも無言の方が多くのことを相手に伝えることになるのかもしれない。  ふとそれに気が付いた時、この店員は自分と同類だと感じた。肝心なことは何一つ言わない自分と。  メニュー表で選んでいるふりをしながら思い当たり、妙に笑い出したくなる衝動を抑えて口を開く。 「ホットサンドとホットコーヒーで」  メニュー表を返す時に店員の顔を見たわけではないが、どこかほっとした気配があった気がした。 「あなた、いつもホットサンドね。それだけで足りるの?」  店員が立ち去った後、朱海が大して興味がなさそうに尋ねる。 「ああ。急いで戻らないといけないからな」  ひどく強張った声を発しながら、コップの水を飲もうとして手が震えていることに気が付き、そのまま手を膝の上に下ろす。 「ハムエッグサンドと、ホットコーヒーで。ミルクもお願いします」  背後の席からよく聞き慣れた声がした気がして、振り向こうとしたが、ちょうど観葉植物で隠れて見えなかった。 「ねえ、最近部屋に来ないのはどうして?」  正面に向き直った途端、朱海のやたらと艶を含んだ声が背筋を撫でる。今度は赤い椿の花がぱっと咲き、目の前に枝からぼとりと首ごと落ちるのが見えた。 「疲れているんだ」  恐れを隠そうとするあまり、感情を押し殺したような平坦な声になる。 「そう」  朱海も真也以上に冷淡な声を返し、それきり沈黙が訪れた。途端に嘘のように聞こえていなかった周囲の音が、一気に押し寄せてくる。しかし、どの音も掴み取る前にすり抜けた。  朱海と向かい合って座り、ひたすらに長い沈黙を過ごすと、先ほども考えたことが頭を過る。  無言の方が多くのことを相手に伝えると。  それは朱海と真也の場合、正確には無言ではなく、本音を語らないことに当たる。そして恐らく互いに相手が何か伝えたいことがあるというのは察していたが、その答えを聞こうとはしない。答えが見えているのもあるが、もう一つ、何もかも今さらだからだ。  カップのコーヒーが空になってすぐ、どちらからともなく席を立ち、会計を済ませるべくカウンターへ向かう。  相席した他人同士の態度を取る真也と朱海を、店員はガラス玉のような目で見るだけで何も言わない。  店を出る時には雨はすっかり上がり、雲間から差し込んだ太陽の陽射しで濡れた地面がキラキラと光っていた。いつもより一層、眩しいくらいに。  朱海と別れ、来た時とは違う道を歩いている感覚で職場へと向かう。足が軽い。これが一過性のものだと分かっている。それでも、ただ今は。  何一つ解決していないじゃないかと鼻で笑う自分の声を無視して、足早に先を急いだ。  職場が近付き、仕事のことへ頭を切り替えていくと同時に、楓子のことが過る。首を振り、揉み消そうとしたところで、背後で靴音が響いた。 「木野さん……?」  振り返ると、木野楓子が立っていた。年は真也よりずいぶん若いだろうと予想はつくが、昨日まで就活生だったと言っても通じるようなスーツ姿だ。それも、恐らく今の雨に降られたのだろうが、髪とスーツが濡れて見えた。 「大丈夫ですか?タオル、借りてきましょうか。それとも、着替えを……」  着替えの宛てがあるわけでもないのにそんなことを口走ると、楓子は黙ったまま真也をじっと見つめる。  それを了承の意と解釈し、急いで会社の誰かに声を掛けて来ようとしたが、何かに引っ張られる感覚がして、足を止めた。視線を後ろに向けると、スーツの上着の裾を楓子が掴んでいるのが見える。 「木野さん?」 「……」  呼びかけるが、彼女はなかなか口を開こうとしない。何かを言いかけて躊躇っている気配が伝わってきた。 「ハムエッグサンドと、ホットコーヒーで。ミルクもお願いします」  ふいに先ほど店で聞いた女性客の声が蘇る。あの声は。  確かめようと口を開きかけたところで、ようやく楓子が声を発した。 「高藤さん、私、あなたに聞いてほしいことがあるんです。それと、あなたの話も聞きたくて。でも、無理やり聞き出したいわけではなく、話すかどうかは高藤さんが決めて下さい」  楓子が声を発する度、記憶の中の声とぴたりと合わさっていく。そのことに、どうしてか心底ほっとしている自分がいた。 「分かりました。木野さん、話を聞かせて下さい」  気が付けば、自然と言葉が口を突いて出ている。相手の安堵するような気配が伝わった気がした。  だが、改めて向かい合って連絡先を交換する際、楓子は真也と目を合わせることはなかった。
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