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静かで暑い夏の日。
すれ違う親子の会話を耳に挟む。
「セミの声すごいねー」
「夏だからねえ」
耳をすます。何も聞こえない。
『そうか、コレもか……』
俺は、呪いのスキのなさに感心すらした。
その女は、俺にとっては山ほどいる遊び相手のひとりでしかなかったが、女の方はそうでもなかったらしい。すごい剣幕で罵り、歪んだ顔で誠意を強請る姿には、軽蔑の念しか湧かなかった。それまでの女達にそう思ったように。
ただ、今までの女達と違ったのは、そいつが強力な呪術師だった、という点だった。
「お前はもう、愛の言葉を見ることも、聞くこともない! ザマァみろ‼︎」
その通りになった。
街角の看板から言葉が一部消えた。
文字列からも例の言葉が消えている。穴あき小説なんぞ読めたものではない。
聞こえる言葉も、所々消える。放送禁止音すらない、静かな瞬間。
歌は、曲によってはほぼ無音となった。
そして俺も、その言葉を発することは出来なくなった。
……まぁ俺は、真実の□なんてものが、この世にあると思ったことはないが。
俺を呼ぶ声がした。
幼馴染の□だ。そのものズバリな彼女の名前を、俺はもう発することができない。本人にも伝えたが、コイツは理解してるのかどうか、変わらず俺に話しかけてくる。
「じゃーん‼︎」
□は、俺の前で厚紙を開いた。白紙だ。
「……その厚紙が、どうした」
「描いてあるもの、見えない?」
「真っ白だろ、からかうな」
□は紙を覗き込んで、首をひねった。
「そっか……記号もダメなんだ」
「何ワケわかんないコト言ってんだ。もう俺に構うなって言ったろ」
彼女を置いて歩き去る。
俺は、今までもこれからも、誰かを□□□ことは一生ないだろう。
だがせめて彼女とは、名前すら呼べなくなった今でも、幼馴染のままでいたかった。
俺の気持ちに反して、□は今日も俺に声をかける。
「じゃーん‼︎」
手を上げる。
彼女の手のひらが消えた。
「⁈ 手が……‼︎」
「消えた?」
満面の笑みで腕を振る。手のひらが戻った。
「……どういうことだ⁈」
「これねー、手話で□□□□って意味なんだって。ほら、□だよ‼︎」
また、彼女の手のひらが消える。現れる。
「伝わった?」
涙だけでは足りなかった。
「□! □□□□!」
やはり言葉は出ない。名前すら呼べない。
でも、叫び続けた。
力の限り、想いの限り、叫び続けた。
道ゆく人々は、奇異に思ったことだろう。
泣きながら言葉にならない言葉を叫ぶ男に、やはりこちらも涙ながらに手を振り続ける女。
静かなふたり。
だがそれは、俺にとって世界で一番□に溢れた時間だったのだ。
〈了〉
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