ペンギン彼女

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 薄暗い休憩室のような場所に青い光と水槽ならではのにおいが舞い上がり、充満していた。ゆらゆら、青い光が天井に反射して揺れている。不規則で不安定に。時々、ホイッスルのような高い音が聞こえる。静寂を破るように、鋭い音だった。  どうやら、それは吹き抜けの下の水槽で動き回る黒い点のせいらしい。僕は特に興味もなく視線を宙にさまよわせた。  ふと、僕の隣にいた女が小さく何かを呟いた。聞き逃してしまったので、何となく僕は聞き返してみた。女は呆れながら、笑ってこう言った。 「ペンギンって人みたいだよね」  年若く、真っ白な肌に濡羽のような黒髪。紅い唇はグロスのせいか光に当たってみずみずしい果実のように潤っていた。  僕は意味が分からず、どの辺が? と尋ねた。 「ん、いろんな子がいるところ」  そう呟きながら少し青みがかった瞳で僕を見た。  やっぱり意味が分からなかったので、色んな子とは? と聞いた。  彼女はちょっと悩んでから答えた。 「例えば、すごく活発な子、優しくて穏やかな子、気が強い子、とかね」  彼女はよく観察していると思う。全く気が付かないところに気が付いている。何となく、それが面白くなくてふうんとそっけなく返事をした。  水面が揺れる。黒い点が次々とプールに飛び込んでいく。何かを追いかけるように。  飼育員がバケツを持って中の物体をプールに投げ入れていた。 餌の時間らしい。 「ほら、餌をもらうときだっていろいろでしょ?」  確かに、それぞれで反応が全く違う。きちんと餌を求めてプールに飛び込む者、餌を持っている飼育員を付け回して餌をもらおうとするもの。 「人間も同じものに対してそれぞれ反応が違うようにペンギンも餌に対しての反応が違う」  確かにその通りかもしれないと思った。僕は曖昧過ぎる彼女の説明になぜか納得していた。僕は彼女に相当酔っているらしい。 プールの水面が揺れた。いつの間にか餌やりの時間は終わっていたらしい。黒い点が水にもぐったり、岩の上でくつろいでいた。何やら騒がしい鳴き声が聞こえた。  僕は何だろう、と首を傾げた。正直、音が反響するこの場所ではとてもうるさく感じる。 「さぁ…?昼ドラ的な何かだったりしてね」  そんなわけないだろう、と僕は苦い笑いを浮かべた。いくら人間に似ているからって、そんなところまで似ていてほしくないと思ったからだ。 「わかんないよ?女好きのペンギンもいるらしいし」  人間の世界もペンギンの世界もあんまり変わらないもんだよ、と彼女は苦笑いを浮かべた。僕は、そんなもんなのかもな、とあやふやな返ししかできなかった。  プールの水面が揺れた。黒い点が飼育員の合図でプールに飛び込む。どうやらショーみたいなことが行われるらしい。  黙ってそれを眺めていた彼女がふと、口を開いた。 「私、生まれ変わったらペンギンになりたい」  あまりの唐突過ぎる発言に僕は固まった。なぜ急にそんなことを言い出すのか、僕にはわからなかった。 「ペンギンはさ、個性がでても生きていけるしむしろ可愛いじゃない?」  それは、水族館という独特な場所だからではないか? と思った。自然界ではそう、上手くいくわけがない。人間社会とある意味同じだ。 「でも、人間は同じことしてもそうは思はれない。個性より協調性じゃない?」  それを否定したらいろんな意味での死が待っているんだもの、と彼女は伏し目がちに言った。  僕はまたよくわからないまま彼女に同意していた。彼女の言わんとしていることに、全く理解していないのに、頷いてしまった。    プールの水面が揺れる。  僕の隣にいた彼女は死んだ。ペンギンになりたい、と呟いたその次の日に。朝、母親が起こしに行ったらベットの上で冷たくなっていたらしい。枕元に遺書があったらしく警察も自殺として処理したらしい。葬儀は家族だけで行われたらしく僕は後から彼女の死を知った。  あの深海を閉じ込めたような瞳は、黒く絹のような髪はもうどこにもないのだ。灼熱の炉の中で灰になってしまった。  僕は彼女がいないという喪失感よりも美しいものが灰になってしまった悲しみのほうが大きかった。  水面が揺れた。優雅に遊ぶ黒い点の中に君はいるのだろうか。  「ペンギンになりたい」と言った彼女の発言は今になってようやく理解できた気がする。ペンギンは空を飛べない代わりに水の中を飛ぶ。人は自由という空がある。しかし、翼を切られて飛べない。  これが正解かはわからない。彼女亡き今、答え合わせをすることはできない。    水面が揺れる。黒い点は僕をあざ笑うように水の中を泳いでいた。
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