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市五郎がドキドキしていると、結城が頷きながら微笑んだ。
「えぇ、それはもう。是非お願いします。本にするお手伝いをさせて下さい。お待ちしています」
ハッと息が詰まり、同時に市五郎の心臓がズキンと打った。
本にするお手伝い────。
社交辞令であっても市五郎には鮮烈な言葉だった。
「あ、……頑張ります。こちらこそお願いします」
市五郎はドキドキ走る胸を誤魔化すように撫で、もう一度頭を下げた。なにかもっと気の利いたセリフを言えないのかと焦り、森にと思って買ってきた土産があるのを思い出した。
「あっ! あ、甘い物は好きですか?」
「甘いモノ?」
結城がキョトンとした表情で見返す。幼い顔立ちがますます幼く見える。高校生でも通用するのではなかろうか。ついマジマジと見ている己に気づき、市五郎は早口でまくし立てた。
「え、駅前のデパ地下で買ってきたのです。良かったらどうぞ。中身はフルーツゼリーです。あ、保冷剤は入っていますが、お早めに」
「へー、ありがとうございます。甘い物って良いですよね。おやつにいただきます」
結城はパソコンをテーブルに置き、土産を両手で丁寧に受け取ると軽く会釈して微笑んだ。
物腰が柔らかで、言葉遣いもそつがない結城に市五郎は感心した。
見た目は学生のようだけれど、思ったよりしっかりしているのかもしれない。最初は少し緊張している様子だったが、少なくとも、私よりよっぽど落ち着いている。
「……では、今日はお時間を頂きありがとうございました。これからよろしくお願いします」
結城の言葉に、市五郎もペコペコと頭を下げた。
出版社の入ったビルディングから外へ出ると、たちまちサウナのような蒸し暑い空気に包まれた。
空を見れば雲ひとつない。太陽光線が照りつけたアスファルトは人間の立っていられる場所ではなくなっていた。卵を落とせば目玉焼きが作れることだろう。
こんなに暑いと流石に人間ウォッチングしながらの散歩も億劫だ。それに、緊張で少し疲れた。
「帰るか……」
市五郎は呟き、街路樹が作る影を縫うように歩きながら家を目指した。思い出すのは、先ほど出会った新しい編集者のこと。
ユウキ……マナト……そういえば彼は何歳なのだろう。年下には違いないが、まだ二十代なのだろう。もしかして……二十代前半とか? 経験があるというのだから、大学を出たばかりの新人ではないとは思うが……。
ユウキ、マナト、どちらも名前みたいだ。
彼のイメージは「ユウキ」だと市五郎は思った。
「……ユウキ……ユウキさん……」
唇に乗せてみると、その名は柔らかく、可愛らしい印象になった。
頭の中は結城の控えめな微笑みでいっぱいになり、あの香りはなんだったのだろうと考え、帰りに寄ろうと思っていた本屋も素通りしてしまった。
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