二、もうひとつの顔

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二、もうひとつの顔

 市五郎は夏が嫌いだ。暑いのも、湿度が高いのも。アスファルトを照り返す熱を感じると、心底うんざりして精神は削られ体調まで悪くなってしまう。  祖母から譲り受けた古い一軒家に独居の身となり、寂しさを感じる反面、毎年夏になるとこの家に住めることにささやかな幸せを感じていた。  昔ながらの土壁や畳には調湿作用があり、手のひらで触れるとヒンヤリして気持ちがいい。和室に寝転がり縁側から吹き抜ける風を感じると贅沢な気持ちになる。  しかし庭に目を向ければ、見えるのは手入れの行き届いていない庭。あまり雑草が伸び放題だと風の通りも悪くなりヤブ蚊も発生する。  市五郎は仕方なく早朝に起床し、庭の草むしりを開始した。  (ひぐらし)の鳴き声を聞きながらの作業は思ったよりも楽しい。朝日が顔を出し、気温が上昇する前になんとか雑草を抜き終え、庭石や松などにたっぷりと水をまく。一日分の体力を使い果たした市五郎は、縁側でゴロンと横になった。  うっすら汗をかいた体に涼しい風が心地いい。  チリンチリン……と風鈴がかすかな音を立てる。  草むしりに精を出したご褒美だ。  だがそれも長くは続かない。八時頃になるとジリジリと気温が上がっていく。天気予報では三十五度の真夏日になると言っていた。  市五郎は諦めて縁側から退散した。和室のサッシと障子を閉め、エアコンを点け扇風機を回す。外から聞こえるのはもう軽やかで涼しげな音色ではない。暑苦しさを倍増させるセミの鳴き声が途切れることなく鳴り響いている。  こんなに暑いと外へ一歩も出たくなくなる。趣味の散歩も人間ウォッチングも、あの喫茶店のコーヒーもお預け。だから私は夏が嫌いなのだ。と忌々しく思う。
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