二、もうひとつの顔

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「ふー」  空腹を感じた市五郎は蕎麦を茹で、軽い昼食を済ませた。  エアコンの効いた部屋でパソコンに向かう。  文字を打ち込みながらも浮かんでくるのは、新しい担当編集者の優しい微笑みだった。 『えぇ、それはもう。是非お願いします。本にするお手伝いをさせて下さい』  こんな私に、彼は心からの言葉をかけてくれた。真摯な瞳は澄んでいて、誠実な人柄なのも伝わってきた。  森さんがいなくなるのは不安だけれど、彼となら信頼関係を結べるかもしれない。名前はやっぱり結城さんがいいか、それとも長い付き合いとなるのだからもっと砕けた感じでマナトさんがいいか……。次に会う時はなんと呼びかけよう。さり気なく呼べるよう練習しておかないと、またどもってしまうかもしれない。  などとくだらないことをつらつら考える。  本……夢のような話だ。現在、短編を載せてもらっているだけでも有難いのに。しかし、長編がないわけではない。最近はBLばかり書いているが、ハードボイルド系や、ミステリーも書いてはいる。ただ表には出していない。少しずつ形になりつつあるけれど、読み返しているうちにこれは本当に面白いのか? これが書きたかったのか? という迷いが生まれてしまう。ちゃんと完結させたら……彼に読んでもらって……。そうしたら次こそ色々アドバイスも貰えるかもしれない。  将来のことはとりあえず置いておいて、次の締め切りまでに短編を一本、できれば二本完成させたい。  市五郎は一分ほど考え、キーボードを叩いた。  結城に原稿を手渡し、彼の微笑む表情を思い浮かべながら。彼が肩を寄せ、原稿のアドバイスをしてくれる光景を思い浮かべながら。  早く会いたいという己の気持ちに気が付かないまま、筋張った長い指を軽やかに動かしていた。
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