三、訪問者

2/13

88人が本棚に入れています
本棚に追加
/89ページ
 静寂の中、カチャカチャと軽快にキーボードのタイプ音が響く。  市五郎はすっかり妄想の世界へ入り込んでいた。  結城をモデルにした主人公の物語は、いつにも増して市五郎を夢中にさせた。妄想はとめどなく溢れ、それに置いてきぼりにならないよう必死に後を追う。その時、ピンポーンと呼び鈴が鳴り現実へ引き戻された。手を止め、壁の時計へ目を向ける。  午後三時。いったい誰だろうと市五郎は首を捻った。訪問する人間など思い当たる節もない。  市五郎は静かに立ち上がった。書斎兼、寝室にしている十四畳の和室を抜け、廊下から玄関を見る。玄関のガラス戸の向こう側にはスーツのシルエット。上着を手に紙袋を下げている。新聞の勧誘員にも見えない。まごまごしていると、またもやピンポーンと呼び鈴が鳴った。  仕方なく玄関まで行くが、まだ鍵は開けない。市五郎にとって、誰ともわからぬ相手に門戸を開けることなどあり得ないのだ。  おそるおそる、ドア越しに声を掛ける。 「はい」  不信感を抱きつつ発した声に、穏やかな声が返ってくる。 「突然すみません。エーゼット出版の結城です」  思いがけない名前に市五郎の心臓が跳ねた。 「え……あ、ちょ、ちょっと待って下さい。今開けます」  ビックリしながら開錠しドアをガラガラと開ける。結城はハンカチで額や眼鏡の淵を持ち上げ、汗を拭きながらペコリとお辞儀をした。 「こんにちは」 「……こんにちは……」  出版社の人間が家を訪ねてくるのは初めてだった。市五郎は鳩が豆鉄砲をくらったような顔で、ただただ結城を見つめた。
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!

88人が本棚に入れています
本棚に追加