一、結城との出会い

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一、結城との出会い

 市五郎が結城真人(ゆうきまなと)と出会ったのは、数週間前。七月に入ったばかりの、なんでもない日だった。  市五郎の趣味は散歩だ。執筆の合間、気分が向いた時、天気の良い日、暇さえあれば街をぶらつき人間ウォッチングをするのが日課になっている。  世の中にはいろんな人間がいて飽きさせない。小説のネタ探しにもなる。いつも散歩の途中で寄る喫茶店の指定席も、窓から通りを歩く人々を眺められるお気に入りの場所だった。  毎日散歩をしていれば、微笑ましい光景や、驚くような出来事にも遭遇する。何かを心に感じた時、市五郎はすかさずいつも携帯している手帳にひらめきを書き綴った。  市五郎は小説家である。しがない三流の物書きだ。ペンネームは『高山市五郎』これは本名でもある。  独身で、五ヶ月後の十二月には四十八歳になる。ベストセラーを毎年バンバン出す売れっ子作家とは違う世界にいる物書き。なにしろ「先生」と呼ばれたこともないし、家でキーボードを叩いていて「原稿はまだですか?」と催促されたこともない。時間にルーズなのが好きではなく、ゲラの直しなどは散歩がてら出版社まで持ち込みに行くのを常としている。要はそこまでの仕事量を抱えていないだけの話だ。  その日は七月にしては過ごしやすい日だった。  薄曇りで風も吹き、空気もカラッとしている。  市五郎は夕方を待ち、外出の準備を始めた。  オフホワイトのワイシャツへ袖を通し、袖口を二回折り返す。紺色のスラックスを履き、ワイシャツの裾をしまってベルトを留めた。スラックスのポケットへ財布と手帳を入れ玄関へ向かう。夏の履物はもっぱら雪駄せっただった。裸足の足を鼻緒に引っ掛け玄関ドアを開ければ、思った通りちょうどいいぬるさ。エアコンでいつの間にか冷えた四肢に染みるようだ。
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