一、結城との出会い

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 夕暮れの気配を忍ばせる空を仰ぎ、市五郎はゆったりとした足取りで古びた門扉もんぴをくぐった。閑静な住宅街を抜け、駅方面へ向かう。  さほど歩くことなく店舗が並ぶ賑やかな通りへ出た。馴染みの本屋へぶらりと立ち寄ると、小説コーナーに平積みされたハードカバーが目に留まる。『探偵Sの失踪』暗い夜道に光るナイフと探偵のシルエット。白抜きで大きく結月総一郎(ゆずきそういちろう)の名が大きく浮かんでいる。 「新作か……」  結月総一郎は大物作家だ。重厚な物語を得意としていて、サスペンスやミステリー色が強い。書いたものはすぐにドラマ化するし、映画化されたものも何本かある。物書きで知らない人間がいないのは勿論のこと、読書好きなら誰でも知っている名前だ。その結月総一郎の人気シリーズに探偵Sがある。探偵Sの〇〇というタイトルはファンにはお馴染みのものだ。もちろんドラマ化もされており、二時間ドラマの常連。同じ物書きだが、ステージがまったく違う。市五郎からすれば雲の上の存在といえよう。憧れやライバルとは程遠い存在。己と比べる次元でないことを重々承知しながらも、総一郎と市五郎。名前からして敗北を感じてしまう。 「コンスタントにこれだけ書けるってすごいなぁ」  ひとりごちて新刊コーナーにある小説をひととおりチェックする。気になる作品が他にもあり、散歩帰りにまた寄ろうと考えつつ書店を出た。  次に向かうのはいつもの喫茶店。コーヒーを飲みながらの人間ウォッチングだ。行き交う人の表情や仕草、その服装から彼らの人生を妄想し、物語のネタを見つけるのだ。  一時間ほど人間ウォッチングを楽しみ、外の世界が藍色になった頃、市五郎は駅まで足を伸ばしてみることにした。駅チカのデパートでスイーツを買うのが目的である。ちょっとした自分へのご褒美だ。  市五郎はタバコ吸いだが、酒はあまり得意ではない。その分甘い物には目がない。涼しげなゼリーとフルーツが乗ったレアチーズケーキと、濃厚なショコラケーキ、それから少し考えて、筒状になったシュー皮にカスタードクリームが入ったコルネというスイーツを買った。 「保冷剤を入れておきますので、すぐにお召し上がりにならない時は、お早めに冷蔵庫へ保存して下さい」 「ありがとう」  ケーキの箱を手に持ち地上へ出る。その時ひとりの男性とすれ違った。
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