四、恋する男

5/19

88人が本棚に入れています
本棚に追加
/89ページ
 ◇ ◇ ◇  午後七時前、市五郎はT国際ホテルの華やかなロビーを抜け、エレベーターで三階へ向かった。  久しぶりに袖を通したスーツに息が詰まるような苦しさを覚える。開いたエレベータードアの先には、朱色の絨毯とさざなみのような笑い声。大きな生け花が飾ってあるパーティ会場の入口。  出版記念パーティーと銘打った会場にはすでに、イブニングドレスで着飾った婦人やスーツ姿の男性が数名で輪を作り談笑していた。  こういった場に招待されたのは初めてだったが、サラリーマン時代の経験はある。いろんな催しに、あの頃も仕事の一環として参加していたが、こんなに息苦しさは感じなかった。  やはり久しぶりだからなのだろう。  大きなシャンデリアがぶら下がる金色の天井を見上げ、足元に目を落とす。先の尖ったイタリア製の革靴しかり、全部捨ててしまおうと思っていたスーツも一着だけ残しておいて良かった。そうでなければ慌てて紳士服売り場に走るところだ。肩の窮屈さが気になるが、体型が変化したわけではなく、いつも着物や浴衣やシャツ一枚の緩い恰好ばかりしていたからなのだろう。  市五郎は考えつつ、静かにため息をついた。
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!

88人が本棚に入れています
本棚に追加