四、恋する男

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 結城さんは編集者なのだから独り占めなどできない。そんなことは分かっていた。私の専属ではないのだ。私とふたりで居た時のように、私だけを見て、私の言葉に微笑み、時折はにかんだような笑みを見せてくれたのは、あの家に私しかいなかったからだ。あの特別だと感じた言葉だって……。 「編集者なのだから、作家には誰にでも言う。ただの社交辞令だろうに」  わざわざ言葉にして、市五郎はグラスをグイッと傾けた。  そう、社交辞令だと分かっていたはずだ。なのにいつの間にか市五郎はふたりの目標のように胸に刻み込んでしまっていた。夢見るような年ではないのに、いつの間にか。  そんな自分が気恥ずかしく、酒は一滴も受け付けない体質だが、次はアルコールを飲もうかと考える。いい年をしてやけ酒とはみっともない。どうせ酔っぱらう前にトイレで吐くのがオチだ。  現実をまざまざと見せつけられ、市五郎は来なければ良かったと己の浅はかさを呪った。家から出なければ、こんな惨めな気持ちにならずに済んだろうに。  結城さんはまだ私に気付いていない。今のうちに帰ってしまおうか……。 「乾杯っ!」  周りが一斉にグラスを掲げる。市五郎が考え込んでいるうちに、開会の挨拶に続き、出版社の挨拶や著者の挨拶も終わってしまっていたようだ。結城の姿も先ほどの場所から消えている。 「やぁ、高山さん。いらしてたんですね」  ポンと肩を叩かれ振り返ると森だった。だが結城の姿はない。仏頂面をなんとか取り繕い、口角を引き上げる。
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