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翌朝、市五郎は送られてきたゲラの直しを携え、エーゼット出版社へ向かった。最初はそうでもなかったが、歩いているうちに徐々に腹が痛くなってくる。
まずい。もしや昨日のコルネのせいだろうか……。
出版社へ着き、担当編集者である森に挨拶する前にトイレへ駆け込む。便器へ座り腹痛からも逃れホッとしていると、外の会話が聞こえてきた。
「……で、その作家さんはどんな方なんですか?」
「そうだなぁ。渋い感じの人だよ。長身で姿勢もいいし見た感じはモデルや俳優みたい。物静かな人だけど、スイーツが大好きでね。意外におちゃめなんだ。気難しい人でもないし。心配しなくても大丈夫だよ」
「いや、心配というか……ちょっと緊張してしまって。かなり年上だし、男性なので」
「そっか、男性は初めてだったね。まぁ、大丈夫だよ。ん? 結城はしないの?」
ん? この声は森さん?
森は市五郎の担当編集者だ。耳を澄ますと、結城と呼ばれたもうひとりの男の声がした。
「あ、はい。僕は大丈夫です。男性なのにBLを書かれるんですね。元々BL作家の方なんですか?」
この声は聞いたことがない。若々しいが、おとなしそうな印象だと市五郎が考えていると今度は森の声がした。
「いや、いろいろ書ける人だよ。ジャンル問わずだね。でもBLに関しては意外だったかな」
あ、これは……もしかして私のことなのかも?
「そうなんですね。他にはどんな物を書いてらっしゃるんですか?」
水の流れる音。その後に手洗いの水道を使う音が二つ。
「手は洗うのか」
「ええ、一応」
森の半分笑ったような呆れ声の後に、先ほどの若者の声がした。穏やかで耳心地のいい声をしている。二人の話し声はだんだん遠ざかっていった。
市五郎は肩の力を抜き、ふたりの声が完全に聞こえなくなってから個室を出た。
自分がいないと思われているところで、己の話を聞くのはヒヤヒヤする。唯一気を許している森であっても、悪口を言われなくて良かったと、市五郎は胸を撫で下ろした。
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