一、結城との出会い

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 市五郎のような箸にも棒にも引っかからない物書きがワガママなど言えないことは本人も重々承知していた。だからといって「はいそうですか」と簡単には返事ができない。  市五郎が脱サラして物書きになったのも書くことが好きだからという理由だけではない。毎年現れる新しい顧客や右も左も分からぬ新人、仕事のできない上司。その他もろもろの煩わしい人間関係に疲弊したところに、妻の不倫が発覚。さらに溺愛していた娘までもが不倫相手との間にできた子供だと妻から暴露され、何もかもから遠ざかり、孤立しようと選んだ道だった。  家族で暮らしていたマンションを売り払い、祖母の家に転がり込んだのは十年前だ。祖母との暮らしは静かだったし、それなりに楽しかった。日常生活は平穏で介護などもとくに必要なかった。九十三歳で大往生した祖母を送り出してからはずっとひとり暮らしをしている。それが自分には向いていると市五郎は感じていた。自分も祖母のように年をとり、ある時期になったら眠るように亡くなるのだと漠然と想像した。  もう女性はコリゴリだし、この年になって一から信頼関係を築くのはとてつもなく億劫だ。唯一親しく話せるのは自分を拾ってくれた編集の森だけであり、それで十分だと思っていたのに。  私の担当は森さんだけです! と、言いたいところをグッと堪える。  人見知りだが、もういい大人だ。分別はわきまえている。
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