一、結城との出会い

7/9

86人が本棚に入れています
本棚に追加
/81ページ
「結城君」 「はい」  森の声かけに、パーテーションの向こう側で誰かが返事をする。さきほどトイレの個室で聞いた声だ。すぐにスーツ姿の若い男性が現れた。小さな顔に眼鏡を掛けている。男はソファに座るでもなく森の後ろに立ち、市五郎を慎重な眼差しで見つめた。その視線に市五郎がたじろいでいると、男の唇が開いた。 「結城と申します。よろしくお願いします」 「はぁ」  男は深々と頭を下げ、ソファをグルリと回り名刺を差し出してきた。会社を捨てた市五郎は名刺など持っていない。両手で名刺を受け取ると印刷してある名前をジッと見た。  結城真人……ユウキ……マサト? と読めばいいのだろうか? 「マナトです。ユウキマナト」  市五郎と同じように名刺を覗き、彼は視線を上げて市五郎を見た。眼鏡越しに見上げる瞳には愛嬌がある。つるんとした頬。ふわっと香る透明感のある匂いに気づき市五郎はハッとした。  昨日、駅チカの階段で擦れ違った男性を思い出す。首筋がほっそりしたあの彼ではないか? 何かに誘われるように振り返った……あれはこの香りのせいかもしれない。  瞳で微笑む彼に、市五郎は咳払いをしながら慌てて自己紹介をした。 「ん、んんっ。あ、た、たか、高山市五郎です。どうぞ、ご指導、ご鞭撻のほどを……」  年の離れた若者にゴニョゴニョ言いながら、慌てて目を伏せて頭を下げる。ひとり動揺しているのが気恥ずかしい。  市五郎は気持ちを落ち着け、もう一度目の前の新しい担当者を見た。スラリとした今時の青年だ。あまり身長は高くない。編集者経験ありとのことだけれど、そんなふうには見えない。昨日まで大学生でしたと言われても納得してしまいそうだ。  市五郎が考えていると、結城はもう一度礼儀正しく頭を下げた。どもる市五郎とは違い落ち着きがある。ポーッとその仕草を見て、己が椅子に座ったままなのに気付いた。いくら学生みたいな風貌でも、編集者に変わりはない。市五郎は慌てて立ち上がり、もう一度「宜しくお願いします」と頭を下げた。市五郎は上背が百八十センチ程ある。立ち上がると、結城はちょっと目を開いて見上げるような仕草をした。  昨日、駅で見た小柄な男子高校生たちよりは多少身長はあるようだが、お世辞にも立派な成人男性には見えない。市五郎は考えながら社交辞令用の笑顔を作った。 「こちらこそ。若輩者ですのでご指導よろしくお願いします」  市五郎を仰ぎながら、結城が微笑むその表情は穏やかで、どこか安堵しているようにも見えた。
/81ページ

最初のコメントを投稿しよう!

86人が本棚に入れています
本棚に追加