一、結城との出会い

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「じゃあ、私はこれで。あとはよろしく頼むよ」 「はい」  森は結城に目を向け、市五郎に軽くお辞儀をして行ってしまった。森の背中を見送り、所在なく立ったままの市五郎へ結城が「どうぞ」と座るように促す。 「あ、はい……」  市五郎は初めて入った診察室で緊張する患者よろしく、ソファへ座りなおした。市五郎が座ったのを確認し、結城も正面へ座る。 「今日は原稿をお持ち頂いたとか」 「……あ、えっと……」  一瞬躊躇したが、結城はもう市五郎の担当なのだ。恥ずかしいなどと言っていられない。自分ではいい出来だと思っているのだ。渡すしかないではないか。  市五郎は観念して同意した。 「はい。こちらです……」 「ありがとうございます。こちらはあとで拝読するとして、昨日送っていただいたデータを拝見してもよろしいでしょうか? お見えになる前に済ませておくべきなのですが、先ほど移動の話を受けたばかりでして」 「どうぞ」  手を差し向け会釈する。結城がノートパソコンを開き、さっそくチェックに入る。  指の背で眼鏡の位置を整え、結城の視線が上下する。そのたびに、長いまつ毛がゆっくり動いている。しばし流れる沈黙に市五郎は唇を結んだ。  タバコが吸いたい。  うずうずとした焦り。市五郎は貧乏ゆすりしてしまいそうな膝をグッと掴み衝動を抑えた。  短編だから読むのに時間はかからない。しかし結城はたっぷり時間をかけてその短編をチェックしていた。読み終えた結城の視線が市五郎へ向けられる。 「学生モノですか。爽やかでいいですね」  ふっと微笑んだ表情は、市五郎に妙な安心感を与えた。ここから厳しく指摘が入ることも多々あるのに和んでしまう。 「ではこちらの原稿は預からせていただきます」 「あ、はい……」  市五郎は返事をしてから思った。「もっとここをこうした方がいい」とか、「淡々としすぎだ」とか、そういうアドバイスや指摘はないのだろうか?  アッサリした返事に拍子抜けしてしまう。  結城はパソコンを閉じて脇に抱え立ち上がった。慌てて市五郎も立ち上がる。結城はハキハキした口調で言った。 「また、こちらからご連絡いたします。これからよろしくお願いします」 「は、はぁ……。あの……」 「はい」 「その、森さんからは、その、良い物が描けたらどんどん持ってきてね、と……言われていたのですが……」  これからもそのスタンスでいいのだろうか? それとも、毎月の短編の仕事だけで結構です。と言われるのだろうか?
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