6.誰かの嫉妬

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6.誰かの嫉妬

「んッ、駄目だ、逃げろ! ウィリアムッ!」  飛び起きたイーサンは汗の流れている喉を拭った。激しく高鳴っている心臓の音だけがやけに大きく感じながら窓の外を見ると、まだ夜明けには程遠い空の色だった。  隣で剥き出しの女の肩が小さく動く。その肩に毛布を引き上げると、身じろいだ女が薄く目を開けた。 「もう起きたの? まだ真夜中よ」  女が腕を伸ばしてくるのをそっと避けると、ベッドから這い出た。 「見回りの交代の時間だったんだ。そろそろ戻らないとクビになっちまう」 「ふふ、傭兵なんかやめてここで働きなさいよ。あなたくらいは面倒見られるわ」  イーサンは返事をせずにまた夢の中に潜っていく女を見ながら、音を立てないようにして鎧に身を包んでいく。そして静かに家を出た。木に繋いでいた馬は主に気が付くと、小さく嘶いた。 「待たせてすまないな。さあ、夜が明けない内に戻ろうか」  イーサンが手綱に手を掛けた時だった。月夜の中を走る人影が見えた。とっさに手を剣に掛ける。ここは街から大分離れた場所にある宿屋で、得に王都では肩身の狭い傭兵達がよく利用する宿屋だった。だからいるとすれば傭兵か、ごろつきか、とにかく夜の闇に紛れいてるのは決まって良いものではない事だけは分かっていた。 「見なかった振りは出来ないか。少しだけ後を追うぞ」  馬は理解したようにゆっくりと歩き始めた。  一帯は起伏のある原っぱで誰かがいればすぐに分かる程に見渡せる。それに丁度今夜は満月。そのおかげで外は明るく見渡す事が出来る。それでもさっき見かけた人影は見当たらなかった。 「寝不足で見間違えたか?」  戻ろうと馬を誘導した時だった。小さな鼻歌が聞こえてくる。とっさに振り返った時、突然月夜に一人の女が立っていた。月夜に照らされた女はまたしゃがむとこちらには気が付かないようにせっせと手を動かしている。イーサンは馬から降りて近付いた。 「おい、お前……」  しかし女は何かに夢中になっているようで全くこちらに気が付かない。すると突然腰を擦りながら立ち上がった女と目が合った。  どちらも何も言わない。イーサンが更に一歩近付いた時だった。 「すみませんすみません! 怪しい者ではないんです! お願いです捕まえないで下さい!」  女の手には沢山の……沢山の根っこが掴まれていた。   兵士の格好をしているイーサンの視線に気がついた女は、とっさに後ろに手を回したが土まみれの服はもう誤魔化しようがなかった。 「ここで何をしていたんだ」 「ちょっと探しものを」 「真夜中にか?」 「真夜中じゃないといけない事情がありまして」 「どんな事情だ?」  女は視線を外すと気まずそうに後ろに隠していた物を前に出した。泥だらけの根っこ。それを何本も持っている。イーサンは困惑したまま更に一歩近付いた。すると女の顔がはっきり見えてくる。そしてとっさに顔を触った。 ーークソッ、兜!  鎧は着ていたが、兜は馬の背に積んだまま。不用意に近付いてしまった自分に後悔してももう遅い。すると女も気が付いたように近付いてきた。 「あの、どこかでお会いしましたか?」  今ここで逃げても不審なだけ。それに女をこんな所に一人置いて行く訳にもいかない。かと言って近付いて話をすればいくらなんでも声や気配で気が付いてしまうだろう。覗くように少し近付いてくるその姿に心を決めると、イーサンはぐっと女の前に出た。 「オノラ、私だ。サンだ」  オノラは自分が歌を歌っていたという事もあり、近付いてくる気配には全く気が付かなかった。それともサンの気配の消し方が上手すぎたのかもしれない。突然目の前に現れたサンが、しかも素顔を晒しているという状況に、ただ呆然としてしまっていた。 「サン様? あの、兜は……」 「誰もいないのに被る必要なんてあるか?」 「そ、それもそうですよね。でもなぜこんな所に? 真夜中ですよ?」 「それは全てこちらの台詞なんだが? 女性が一人でこんな所で何をしているんだ」 「もちろん薬草を探していたんですよ。今日は満月ですし、最高の機会なんです!」 「ウィリアムは……ウィリアム様はご存知なんだろうな?」  しかしオノラは視線を彷徨わせると、小さく笑って誤魔化した。 「滋養強壮によく効く薬草なんです。根っこは真夜中に、特に満月の夜に摘むと効能がとても良いんでですよ!」 「そういう事を聞いているのではなくて、ウィリアム様は知っているのかと聞いているんだが」 「……知りません」 「ここまではどうやって来た? 見た所馬もいないようだが……」 「歩いて来ました。慣れているんですよ私。いつもこうして薬草を探して歩いていましたから」 「一人でなんて正気じゃない! 何かあってからじゃ遅いんだぞ!」 「大袈裟ですって。いつも一人で何日も出歩いていたんですよ」 「無事であった事を妖精王に感謝するんだな! 女が真夜中に一人で出歩いて今まで無事だった事の方が奇跡なんだぞ!」  イーサンは何故かもの凄い顔で怒るととっさに口を抑えた。 「まさか私を探しに? 別に逃げようとした訳じゃないんです! もしかして大事になってます? 本当に今日じゃないとせっかくの効能が減ってしまうので、本当なんです!」 「別に連れ戻そうと思って追いかけて来た訳じゃないから心配するな」 「そうですか。それなら良かった」 「薬草がそれ程まで大事なのか?  女性が真夜中にこんな所を歩くなど、それこそ命を掛けているのと同意なのに。なぜそこまでするんだ。薬草なら王城にもあるだろう。わざわざ危険を冒してまで来る必要があったのか?」 「だって私は薬師ですから。薬師である以上、私にしか作れない最高の物を作りたいんです。これくらいしか私には出来ませんから、自分に出来る事をしているだけなんです」 「私にしか作れない最高の物……」 「これで良い薬を作って必ず王子に子供を作ってみせます!」 「子供を作るのは王子と寵姫だと思うぞ。おこがましい奴だな」 「そ、それはもちろんそうなんですけどね。最高の手助けが出来ればと思っているんです」  するとサンは背中を向けてしまった。 「そこで待っているから終わったら声を掛けろ」 「え、待っていてくれるんですか?」 「そうじゃないとここから歩いて帰る気だろ。それだとウィリアム様にお叱りを受けるからな」  そう言って離れていく背中に頭を下げると、オノラはすぐに残りの薬草積みを開始した。  空の色がうっすらと変わり始めた頃、オノラは持参していた麻袋を引っさげてサンの元に走っていいた。 「お前は一体どれだけ待たせるんだ」 「でもまだ夜明け前ですよ。それに今日じゃないとまた一ヶ月待たないといけないんです」 「それはもういい! ほら、帰るぞ!」  サンは馬に乗って手を出してくるが、生憎オノラは両手が塞がった状態。舌打ちが聞こえた後、麻袋が無造作に引き上げられ、言うまでもなくオノラも麻袋のように引き上げられたのだった。  段々と夜が明けていく。馬の足が次第に早くなっていき、やがて城門の前に着いた。 「フラン家の別邸に行くよりも後宮に向かった方がいいだろう。どのみちお前がいない事はあの家の者達も気づいているだろうから、後できっちりとウィリアム様からお叱りを受けろよ」  振り返ると、サンはすでに兜を被っていた。 「あの! あなたはウィリアム様とは親しいですよね?」 「まあ、それなりには」 「聞きたい事があって……」    しかしいざ口にしようと思うと言葉に詰まってしまう。すると、サンは深い溜息を吐いた。 「ウィリアム様の身体の事か?」 「なんで分かったんですか?!」 「言いにくそうに聞きたいウィリアム様の事なんてそれくらいしか思い浮かばない。という事はウィリアム様から聞いたんだな」 「いつか他の誰かから聞くよりもいいだろうからって」 「それで、何が知りたいんだ?」 「なんでなのかなって、考えたら気になってしまったんです」  すると今度はさっきよりも盛大な溜息が聞こえてきた。 「ただの興味でウィリアム様の事について話せと? お前はそれを知ってすっきりするかもしれないが、勝手に知られたウィリアム様はどう思うか考えたか?」  オノラが言葉を飲み込むと、サンも苦しそうに唇を噛んだ。 「知りたいならイーサン王子にでも聞け」 「なぜイーサン王子なんですか?」 「当事者だからだよ」 「でもイーサン王子には会えないんです! どこにいるのかも分からなくて。夜伽をしてもらわないといけないのにどうしたらいいのか……」  サンは何か言いたそうに一瞬躊躇ったが、そのまま馬に乗ってどこかに行ってしまった。 「何よ、イーサン王子の居場所を教えてくれるんじゃないの」 「オノラ! 良かった、一体今までどこにいたんだ! あんな書き置き一つで心配するじゃないか!」  後宮に着くなり飛び出してきたウィリアムは、心配と怒りを滲ませたような表情を浮かべたまま大股で近付いてきた。いくらなんでもこんな時間に登城しているはずはない。心配させてしまった申し訳なさで頭を下げていた。ウィリアムは泥の付いたマントと麻袋で察したらしく、盛大な溜息を吐くと無言のまま麻袋を取り上げてくれた。 「何か言い訳は?」 「ごめんなさい」 「謝罪ではなくて理由を聞いているんだよ」 「……満月だったので薬草を採りに行っていました」 「一人で行かないように言ったよね?」 「一人じゃありません! サン様と一緒でした!」  最初から一緒だった訳ではないが嘘でもない。すると、ウィリアムの足がぴたりと止まった。 「サンと? 一体どうして」 「行きは一人だったんですけれど、サン様が迎えに来てくれてここまで送ってくれました」 「……いつの間に君達はそんなに親しくなっていたんだ?」 「最近、ですかね」 「最近ね。それはそうとイーサン王子が今日も夜伽に現れなかったら、シャーロット様の夜伽の番が過ぎてしまうけれど、どうするつもりだい?」 「仕方ありませんよ。お次はオリビア様の番になるかと……」 「本当にそんな事が許されると思うか?」  急に鋭くなったウィリアムの視線が怖いと思ってしまう。ウィリアムは麻袋を抱きながら耳元まで近付いてきた。 「いくらエブリン王妃に守られている後宮とはいえ、バイロン侯爵家を敵にまわす事は危険なんだ。このままシャーロット様と夜伽が行われず、オリビア様の番になりイーサン王子が現れたら、バイロン侯爵家が仕返しをしてくるかもしれないよ」 「そんなの王子に言ってくださいよ。来ないのはイーサン王子じゃないですか」 「オノラは王族のせいに出来るのか? そんな事をしたらお役目を果たす前に、ここが胴体から離れてしまうからね」  すっと触られた首元に、背筋に寒気が走る。 「まさか……」 「冗談だと思うか? 王城は、後宮とはそういうものだよ。だからこれからは何でも私に相談する事。外出する時ももちろんね」 「分かりました。ウィリアム様にご相談します」  満足したように歩き出すウィリアムの背中をどこか別人のように感じてしまっていた。  シャーロットの部屋からは激しく何かが割れる音が聞こえていた。扉を叩こうとして固まってしまったオノラの横でウィリアムは躊躇いなくその扉を叩いた。 「そろそろ夜伽のお時間となりますが、ご準備はいかがでしょうか」  中で何やら騒がしい音がしたかと思うと、扉がゆっくり開かれていく。服装の乱れた侍女が半泣きのまま出てきた。 「何があったんです? 怪我をしているんですか?」  ウィリアムが手を伸ばすと、侍女は小さく首を振った。しかし頬と、よく見れば手からも血が出ている。ウィリアムは侍女の腕を掴むと、そのままどこかに連れて行ってしまった。慌ててオノラも後を追おうとしてウィリアムが足を進めながら叫んだ。 「オノラはシャーロット様のご準備をお手伝いして差し上げるんだ」 「お手伝いって、もし今日も来なかったらどうするのよ……」  呟きながら恐る恐る入った部屋の中は散々な状況だった。 「あの、湯浴みは済まされましたか?」  部屋の中に立っていたシャーロットはまだドレスのままで、今にも飛びかかってきそうな顔をしていた。手にはカップを持っている。おそらく手当り次第に物を投げ、運悪くあの侍女に破片がぶつかってしまったのかもしれない。残っている侍女達は黙々と片付けをしていた。オノラは床に散乱している硝子の欠片を同じように拾いながら、掃除をしている侍女が集めていた場所に置いていく。するとシャーロットはオノラの肩を押してきた。 「お前はちゃんと仕事をしているの? 一体いつになったらイーサン殿下はいらっしゃるのよ!」 「そのように興奮されてはお身体に悪いんです。まずは座ってお茶でも飲んで下さい。って、カップが無いみたいですね。そのカップを貸して下さ……」  その瞬間、手が振り上げられた。しかし痛みはない。小さな悲鳴と共に恐る恐る目を開けると、そこにはシャーロットの手首を掴む男性の手が見えた。 「そんな、嘘よ」  激しく狼狽しているシャーロットの視線を辿って行くと、そこにはサンが立っていた。 「サ……」  その瞬間、もう片方の手で口を覆われる。そして目で制された気がした。 「イーサン殿下がおいでなられました!」  誰かの声が響く。頭が殴られたような衝撃にオノラはくらりと目眩がした。 「今日は夜伽の日だと思っていたが私の勘違いだったようだな」  手首を掴まれたままのシャーロットは顔を真赤にしながらイーサンにしながれかかっていった。間に挟まれたオノラはなんとも言えない圧力にそっと間から抜け出すと、甲高いシャーロットの声が耳に響いた。 「お越し頂けて光栄です殿下!」 「そういう割には酷い有様だな。それにそなた、今この薬師に何をしようとしていたんだ」  イーサンに掴まれたままの手を無理やり引き戻すとシャーロットは恐ろしい程の笑顔で見下ろしてきた。 「誤解ですわ、殿下。この者が勝手に転んだので手を貸そうとしていただけです」 ーーもう反論する気力もないわね。  オノラはマントをほろうとすっと立ち上がった。 「私は廊下に出ておりますので、お二人共ご準備が出来ましたらお声がけください」  シャーロットの変わり身の速さと図々しさに嫌気がさしながら部屋を出た。  廊下に出て深い溜息を吐くと、後ろに気配を感じた。今は振り向かなくても分かる。オノラはもう取り繕う気にもなれなかった。 「一体なんのつもりですか。“サン様”」 「これには色々と事情があったんだ。それにサンだというのはウィリアムとお前しか知らないんだぞ」 「なんでイーサン王子に聞けなんてまどろっこしい事を言ったんです」 「“サン”の時に話して良い事ではないと思っただけだ」  オノラは勢いよく振り返ると、イーサンを睨みつけた。 「なぜ今まで夜伽に現れなかったんです? 私達がずっと探しているのは知っていましたよね? ウィリアム様もです! イーサン様がサン様だと知っていながら連れて来られないだなんて、皆酷すぎます!」  その瞬間、大きな手が頭に乗ってきた。 「すまなかった。事情あっての事だが、正直お前があんな風に薬師という仕事に向き合っているとは思いもしなかったんだ。だから私も自分のやるべき事をしに来た。子作りは王子である私のやるべき事の一つだからな」 「……聞いてもいいですか、ウィリアム様の事」  するとイーサンは意を決したように頷いた。 「もちろんだ。でもその前に私も役目を果たそうか。いつまでも逃げてはいられまい」  部屋から侍女とシャーロットが出てくる。侍女は言いにくそうに言葉を発した。 「恐れながらイーサン殿下に申し上げます。お部屋の片付けにはもう少しお時間が掛かりますゆえ、今宵は別のお部屋をお使い頂けませんでしょうか?」 「私は構わないが、オノラはどうだ? 準備があるんじゃないのか?」 「私は得にお部屋が変わっても問題ありません」  シャーロットの鋭い視線が刺さってくる。するとイーサンはシャーロットを抱き抱えて歩き出した。 「それでは私の部屋に移ろうか」 「オノラ!」  侍女の傷の手当を終えたらしいウィリアムは侍女と共にこちらに戻ってきた所だった。 「今夜は私の寝室を使う事にした。問題ないな?」 「はい、問題ございません。ではすぐにオノラと共に向かいますので……」 「オノラだけでいい。あとは入って来るな」 「ですがオノラ一人だけ入室というのは許容出来ません」 「なぜだ? オノラは一人前の薬師なんだろう? それなら一人で構わないじゃないか。それとも半人前をあの男は押し付けてきたというのか」 「そんな訳はございません! オノラ、一人で平気か?」  ウィリアムの心配そうな視線に寂しくなる。 ーーそんなに不安そうにしなくてもいいじゃない。  ウィリアムに信用されていないと思うだけで、胸の奥がツキっと痛んだ気がした。 「私一人で大丈夫です。ウィリアム様はどうぞお休み下さい」  息巻いて言ったはいいが、結果は大失敗に終わった。  イーサンの大事な物が何故か急に萎えてしまい、子作りは失敗。シャーロットに叩かれた頬がヒリヒリとして、手で抑えたまま立ち上がる事が出来なかった。 「オノラ、こちらに来い」  ふと視線を上げると、奥の部屋に引っ込んだはずのイーサンが手招きをしていた。フラフラと奥の部屋に入っていくと、そこは仕事部屋のようになっていた。 「後宮にいる時はあまり仕事はしないんだが、一応執務が出来るようにはなっているんだ。ほら、これで冷やして」  差し出されたのはグラスに入った茶色い飲み物だった。氷が浮かんでおり、香りは嗅いだ事のないお酒だった。 「別に飲まなくてもいいから頬に当てておけ」  申し訳無さそうにされればそれ以上は何も言えない。それに殴ったのはシャーロットであってイーサンではない。薄暗い明かりの中でガウンを着てグラスを傾けているイーサンは、色気の塊だった。オノラは目のやり場に困って視線を彷徨わせると、ふと一枚の小さな絵に目が留まった。 「それは幼い日の私とウィリアム、そしてフレディだ。まだメイソンは産まれていなかったからな」 「そんなにお小さい頃から仲が良かったんですね」 「ウィリアムと俺は従兄弟同士なんだよ。フラン子爵は母の兄なんだ」 「血縁者だとは伺っていましたが、それではエブリン王妃様はウィリアム様の叔母様という事になるんですか。なんだか本当に凄い人だったんですね」 「おいおい、目の前にもっと凄い人がいるんだけどな」 「え?」 「まあいいさ。当時父上は数多いる寵姫との間に子が出来ず、貴族の中の令嬢を片っ端から召し上げていたんだ。そのうちの一人が母上だったのさ」 「でもそれならご身分はどうして寵姫から王妃になられたんですか?」 「私を産んだからだ。そうか、これは貴族にしか知られていない事だったな。子爵家の娘が王妃だなんて大出世だと思わないか? 要は子さえ出来ればいいんだ。ここはそういう国なんだよ」  そう自虐的に言って笑った。 「そして私が子供の頃に誘拐事件が起きたんだ」 「よく、ご無事でしたね」 「誘拐されたのはウィリアムだった」 「えッ……」 「ウィリアムが八歳で俺が五歳の頃だ。当時の私とフレディはよくその絵のようにウィリアムを慕いよく三人で過ごしていたんだ。体つきは恵まれていたから三歳差でも体格はあまり変わらなかったかもしれない。それでも中身はウィリアムの方がずっと大人だったから、俺に間違われてウィリアムが誘拐された時、事もあろうにウィリアムは俺の振りをしたんだ。殺されるかもしれなかったのに」 「でも命は助かったじゃないですか」 「攫われたウィリアムが何もされなかったと思うか?」  悪寒が背中を走る。イーサンはどこでもない宙を見つめながら細く息を吐いた。 「俺と間違えた犯人達は、ウィリアムに薬を飲ませたらしい。子が出来ない薬を」 「!!」 「皇族は子が出来にくい。でも出来ないわけじゃない。だから万が一にも子が出来ないようにと犯人は王子と思ったウィリアムに薬を盛ったんだ」 「犯人は捕まったんですか? 犯人なら解毒薬を持っていたかもしれませんよ!」 「そうかもしれないが五歳の俺には分からなかったし、そんな事件が起きていたと知ったのもずっと後になってからだった。フロスト王国の者が怪しいとされたが、そんな事が明るみになれば彼の国との戦争になりかねない。幸いな事に王子である私は無事だったからと、おそらく揉み消されたんだろう」 「そんなの、そんなのウィリアム様があまりにも可哀想過ぎます」 「ウィリアムが誘拐されたという事実が私に影響しないようにと、それから五年間ウィリアムは留学したと聞かされていたんだ。医官になり後宮で働いていると知ったのは随分後になってからだった」  いつも笑顔で頼りになるウィリアムの姿が瞼に浮かぶ。どれだけ過酷な人生を送ってきたのだろうか。幼い頃に医官を目指したと聞いた。それは長子でありながら家を継ぐ事が出来なくなってしまったからだったのかもしれない。ウィリアムは幼いながらにその事実を受け止め、医官としての道を選んだ。そして今のウィリアムを見ていればどれだけ努力してきたのかがよく分かる。エブリン王妃や後宮の人々がいかにウィリアムを信頼しているのかも、この目で見て、よく分かっていたからだ。 「そんなにウィリアムが気になるか?」  突然の言葉に反応する事が出来ずに、気がつくと顔が真っ赤になっていた。 「ふはッ、なんだその顔は! 俺の夜伽を見ていても顔色一つ変えずにいる奴がそんなに顔をするなんて」 「あれは仕事だと思っているんです!」  急に恥ずかしくなり顔を背けた。 「すまない事をしたと思っている。あんな事件に巻き込まれなければ、ウィリアムにはもっと別の人生があったはずなんだ。ウィリアムは愛する女を抱く喜びを知る事も出来ない。本当に申し訳なく思っている」 「もしかして、イーサン王子が夜伽を拒み続けてきた理由って……」  イーサンは切なそうに笑うだけだった。 「だって、それはイーサン王子のせいじゃありません! 絶対にウィリアム様もそう仰るはずです!」 「ありがとう。今回来てくれたのがオノラで本当に良かったと思っているんだ」  オノラは恥ずかしくなり、頬を冷やしていたお酒を一気に飲んだ。高い酒の味など分からない。ただ喉を焼くような刺激が通り過ぎていっただけだった。  ウィリアムは暗い廊下からイーサンの部屋を見つめ、やがてその場を離れていった。 「ウィリアム様、次に試してみたい体位なのですが、この格好はどのようになっているのでしょう」  オノラはカイの手帳を逆さにしたり覗き込んでみたりしながら、男女の睦み合いの絵を見ながら考え込んでいた。しかし肝心のウィリアムから返事はない。医官室で机に向かって仕事をしているのかと思って覗き込んだウィリアムの手は完全に止まっていた。 「ウィリアム様? どうかなさいましたか? ウィリアム様ッ!」 「すまない。何か用か?」  オノラは訝しげにウィリアムを見ながら、手帳を差し出した。その瞬間、ウィリアムは手帳の端を握りしめた。 「男性の足と女性の足を交差させているように見えるのですが、こんがらがっているように見えるんですよね」 「……君は私と一緒にこんな絵を見ていてなんとも思わないのか?」 「もしかしてウィリアム様はご不快でしたか? すみません私ったら全然気がつきませんでした。イーサン王子に直接相談してみます」  すると勢いよく手帳が閉じられた。 「ウィリアム、様?」 「確かにこんなものを見せた所で私と君とでは間違いなんて起こらないだろうからね。こうして部屋に二人きりでも疑われる事もない。でも……」  ウィリアムはオノラの手を掴むと医官室の奥になる部屋へと入って行った。そこには仮眠用のベッドが置いてある。誰でも使用出来るが今は誰もいない。手が離れたと思った瞬間、ベッドに押し倒されていた。 「なにを」  言葉にならない声が出た瞬間、足を思い切り掴まれていた。信じられない程に持ち上げられたその間にすかさずウィリアムの身体が滑り込んでくる。交差させるようにぴったりと未着した陰部に少しだけ形の分かる物が当たっている気がした。ウィリアムも全く動かない。ただ持ち上げた足を抱き締めたまま、手がふくらはぎをなぞっていく。 「やめッ」  その瞬間、触れていた陰部同士が思い切り擦り合わされた。何とも言えない妙な感覚が腰に走る。オノラが逃げようと思わず腰を引くと、ウィリアムは離すまいと腰を掴んでいた。柔らかいけれど存在感のあるそれに、今まで誰にも触れられた事のない部分に刺激が加わり、オノラは思わず声を上げていた。 「ん、ふ」 その瞬間、掴まれていた腰と足が離されて、ウィリアムがベッドから降りていた。 「これで合っていると思うよ。紙で見るよりも実際に体験した方が分かりやすいからね」  オノラは誰もいなくなった部屋で、一人放心しながら半身を起こした。ウィリアムの物が押し当てられた場所を恐る恐る触れると、しっとりと湿っている。とっさに指を離し、そのままベッドに突っ伏した。 「なんだ、練習よね。そうよね。ははっ……」  そう呟きながらクッションに顔を押し付けた。  部屋を飛び出したウィリアムは廊下に出るなりしゃがみ込んだ。 「……にを、何をやっているんだ私は!」  頭を掻き毟りながら近づいてくる女達の声にその場を離れた。 「ん、あんッ! イーサンさまぁ!」  四人目の寵姫は艶めかしい声が寝室を通り越して廊下にまで響く程だった。エスメラルダは元踊り子というだけあって身体が柔らかく、今までの寵姫達では恥ずかしがって出来なかった格好も率先してこなしてくれるありがたい女性だった。 「もっと、もっと激しくでも、わたし大丈夫ですからぁ!」  貪欲にイーサンの腰に足を絡ませている辺り、余程待ち望んでいたのだろう。オノラは目の前で起きている非日常の光景を見ながらなんだか虚しい気持ちを感じていた。 「オノラ、オノラ! おいッ!」 「は、はい! なんでしょう」 「もう、すぐッ、果てそうなんだが、このままいいのか?」  イーサンは堪えているのか腰を打ちながらチラチラとこちらを見ている。汗で濡れた金色の髪の隙間から、快楽を堪えてこちらを見てくる表情が堪らなく色っぽい。 ーーウィリアム様の髪もこんな風に濡れるのかしら。  その瞬間、ウィリアムとの事を思い出してしまいオノラは勝手に頭を振った。 「オノラ! お前なぁ」  呆れながらイーサンは目を瞑るとビクビクと身体を痙攣させてエスメラルダを抱き抱えた。エスメラルダが恍惚とした表情を浮かべながら果てている。オノラは息を吐くと、すぐさま身体を清められるように準備を始めた。  夜伽が終わり、エスメラルダは担架に乗せられて部屋を出て行った。せっかく注がれた子種が流れ出てしまわないようにと、オノラが作らせた物だった。侍女達六人がかりで持ち上げられた担架の上からエスメラルダは名残惜しそうにイーサンを見ている。それでもすでにイーサンはきっちりとガウンを着てすでにエスメラルダの事は見ていなかった。 「それでは私もこれで失礼致します。お疲れでしょうからごゆっくりお休み下さい」 「待て」  イーサンは短く言うと酒を取って戻ってきた。 「少し付き合え」 「……それならエスメラルダ様とご一緒にお飲みになれば良かったんですよ」 「あれは伽の女だろう。酒を呑む相手じゃない。それにあの声で頭が割れそうだ、なんとかしてくれ」 「後で疲れを癒やすハーブティーをお持ち致しますからお酒は控えたらどうですか?」 「ハーブティーはいらん。苦くて不味いだけじゃないか。それなら酒を飲んでぐっすり寝た方がましだな」 「翌朝の目覚めが違うんですよ、全く」  するとイーサンは苦笑いしながらまたあの強そうな酒をグラスに注いできた。すでにその味を知っているオノラは顔には出さずに差し出されたお酒をひと舐めした。イーサンは楽しそうに肩を揺らして優雅に飲んでいる。   「伽の最中にぼんやりしていた時があったな。職務放棄だぞ」 「そんなんじゃありません! ……というか毎回立ち会わなくてもいいのでは?」 「しょうがないだろ、母上の言いつけなのだから。お前が立ち会って間違いなく努めは果たしていると言わなくてはな」 「でも人のを見るのは全く慣れません」 「慣れろ、仕事だ」 「イーサン王子は平気なんですか? その、人に見られるのがお好きとか?」  するともう一杯酒を注いだイーサンは軽蔑するような視線をオノラに送ってきた。 「そういう趣向を好む者もいるだろうが俺は至って健全だ。ただ、幼い頃から閨教育には力を入れられてきたから、慣れたと言った方が正しいかもしれない。目の前で見るのはもちろん、最中も見られている時も多かったから正直今では何とも思わないさ」 「大変ですね、王族の方って」  ぽつりと呟くと、イーサンは大きく伸びをした。 「もし今回寵姫の誰かが子を宿したらお前は元いた場所へ戻るのか?」 「元々そういうお約束でしたし。先生も待っていますから」 「ウィリアムはいいのか?」  どきりとして動揺した姿を見逃すようなイーサンではない。すかさず顔を覗き込んできた。 「やっぱり今日のお前はどこか変だな。何があった、白状しろ」 「な、何もありませんよ! 誤解です!」 「何が誤解なんだ? 言ってみろ」 「ですから何もないですってば!」 「どうせウィリアムの事でも考えていたんだろ?」 「ッもう部屋に戻ります!」  部屋の中からは笑い声が聞こえてくる。オノラは熱くなった顔を仰ぎながらイーサンの寝室を出た瞬間、ウィリアムが立っていた。今の話が聞こえていたのではと頬が強張った瞬間、自分でも下手な笑顔だと思ってしまった。 「もうとっくに夜伽は終わったと聞いていたが、君はまだ殿下の部屋にいたのか?」  廊下が薄暗いせいか、心なしかウィリアムの顔が怖いと思えてしまう。オノラは無意識に手を握りしめていた。 「寵姫を差し置いてたった一人で王子の部屋にいるのは止した方がいい」 「誤解です、ただ少しお酒の相手を……」  その瞬間、ウィリアムが睨み付けてきた。呼吸が止まるのでは思う程に冷たい視線が向けられ、オノラは言葉を失ってしまった。 「君は自分の身分を忘れているようだね。万が一にも王子と関係を持って身籠れば君は一生ここから出る事は出来なくなるんだよ。第一、王子とそんな関係になるなんて身の程知らずだと思わないか?」 「わ、私はただ……」  流したくないのに涙が滲んでくる。身体が勝手に震えて、流したくもないのに涙が出てくる。オノラは耐えられなくてその場から走り去った。 「あぁ、今のは嫌われたな。確定だな、うん」 「盗み聞きですか」  扉にはグラスを持ったままのイーサンが胡乱な目でウィリアムを見つめていた。外はいつの間にか嵐になっている。激しい雨が窓を打ち付けていた。 「好きな子を苛めるなんて、まさかウィリアムがそんなに幼稚な奴だとは思いもしなかった」 「そんなんじゃありませんよ。イーサン様も少しはお考え下さい。後宮の者にあなたとオノラの仲が疑われれば、オノラの身が危険に晒されるのですよ」 「それならそうだと言ってやれば良かったんだ。それなのにあんな言い方をして、本当に嫌われてしまうぞ」 「それならそれで構いません。どちらにしても王子の誰かに子が出来たらオノラは元の生活に戻るんですから」  ぶっきらぼうにそう言って離れていく背中を見つめながら、イーサンは三杯目の酒を煽った。
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