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1.後宮からの遣い
妖精の加護を受けて繁栄してきたジャルダン・デ・フィー王国では、至る所に花々が咲いていた。
森や草原、それに街道にも季節の花々が絶える事なく咲き乱れ、家々の玄関前や道の脇には手入れされた色とりどりの花が植えられた花壇が作られている。そしてどの家も軒下には良く使うハーブやドライフラワーが吊るされていた。小さな国にしては珍しく、各地に多様な珍しい草花が自生しており、それらは高価な香油や薬の原料となる為、他国からは花の王国とも呼ばれていた。
坂になっている石畳を重い足取りで一歩一歩足を進めていたオノラは、突然誰かと肩がぶつかり、手に持っていた大きな麻袋を落としてしまった。麻袋は二重にしているのでそれだけでずっしりとした重みがある。その重みがよろけた足の上にどしんと落ちてきた。さほど痛みはなかったが麻袋を潰さないようにととっさに避けた瞬間、思い切り横に倒れてしまった。突いた肘の骨に響く痛みに悶絶していると、頭上からクスクスと笑う声が聞こえてきた。
「そんな時代遅れのマントなんて被っているから前が見えないのよ」
勢いで被ってしまったフードの隙間から相手の顔を見ようとゆらりと首を傾げた時、ポツポツと雨が振り始めた。
「あ、駄目ッ!」
オノラは覆い被るように麻袋の上に乗った。
「嘘、あんなに晴れていたのに? 早く行きましょ!」
女達が騒がしく離れていくのも気にせず麻袋を守っていると、程なくして背中に当たる雨が止んだようだった。空を見上げると太陽は真上にあり、雨雲など見当たらない。しかし不意に見上げたせいで太陽の光に一瞬目が眩んでしまった。その光を遮るように誰かの影が視界に飛び込んでくる。その誰かがオノラの抱えていた麻袋をひょいと持ち上げた。
「泥棒!」
顔が見えないまま声を上げた瞬間、目の前によく見知った顔が覗き込んできた。
「泥棒だなんて酷いな。これでも坂の下から見かけて急いで追いかけて来たってのに。って、なんでお前だけ濡れているんだ?」
短く白いマントを肩から掛け、胸元をリリーの花を象ったブローチで留めた姿は、見慣れているオノラでも息を呑む程に美しかった。アーチボルド神官長。王国には二人の神官長がいる。その二人が王国の神殿全てを管理する役割を担っていた。
この国は昔から妖精を信仰していた。まだ世界が人の世界と妖精の世界との境界が曖昧だった頃、互いに寄り添って生きてきたというのが、子供の頃に習う一番最初の歴史だと言ってもいい。王都にあるアネモイ神殿と、王都から馬車で六日程かかる国境近くのこの地にあるのがオーラエ神殿で、アーチボルトが治める神殿だった。人の前に殆ど姿を表さないアネモイ神殿の神官長と違い、アーチボルトはこうして町にふらっと現れてはよく町の人々とよく話している。そして何より人々を惹きつけるのはその容姿だった。すらりと高い背に、優しく通り過ぎる風が肩まである白銀の髪がさらりと揺らしている。切れ長の瞳は春の新緑を吸い込んだような色の瞳をしており、その整った顔が不意に覗き込むように屈んでくると、無言のままそっと額と額がくっついた。悲鳴はもちろん、声も出せない代わりに遠くから女性の悲鳴が上がる。さっきわざとオノラにぶつかっていった女性達のようだった。
「たった今通り雨が降ったんです。……というか神官長様。このような人の往来がある場所で一体何をなさっているのでしょうか? 私を貶めたいんですか」
額をくっつけられたまま冷静に話すと、鼻先で小さな笑い声が漏れた。
「通り雨ねぇ。それより随分な言い方だな。いつも通りアーチと呼べよ」
すっと額を離されるや否やオノラは呆れたようにアーチボルトを押すとそのまま歩き出した。
「顔色が悪いみたいだから熱があるのかと思ったけれど大丈夫そうだな」
「その為に額を合わせたの?!」
頭上からクスクスと笑い声が振ってくる。笑いを堪えているその顔はオノラからしてみれば憎たらしい顔だったが、他の者達からすれば拝みたくなる位に神聖なものに違いない。二人が何を話しているかまでは周りの人々には聞こえていないだろうが、痛い視線から逃れるようにフードを深く被った。
「ほんっとうにわざとしか思えないわ。それに人前であんな事はしないでといつもいつも言っているでしょ!」
「あんな事って?」
「だから、あんな風に額を合わせたりする事だってば!」
「あれくらい誰でもするだろ? この間神殿に運び込まれてきた子供にも同じようにしたぞ。オノラの薬が良く効いたからお礼を言いに行ったのに、カイから出掛けたと聞いて驚いたよ。また一人で森に行っていたんだな」
「ちょっと私の言った事聞いているの? あんな事もうしないで!」
「分かった分かった。それにしてもこんなに沢山摘んできて、随分深い所まで行ったんじゃないだろうな?」
「え? そんな事はないけど……」
オノラは気まずくて視線を逸した。アーチボルドの言う通り、ここから丸一日歩いた所にある“境界の森”にまで行って来た帰りだった。その森の果てには妖精の国があると言い伝えられている深い森。アーチボルドが心配するのも無理はない。“境界の森”は磁場が狂っていると言われ、一度迷い込めば二度と出ては来れないと恐れられている迷いの森でもある。それは決して迷信ではなく、足を踏み入れた人々は本当に迷ってしまうから不思議だった。オノラ自身、何度も遭難者を助けた事がある。本当ならもっと奥までいけるのに泣く泣く下山した事は数え切れなかった。しかし何故かオノラは道に迷わなかった。他の森と同様で、ちゃんと目印を付けておけば戻れるし、何度も行っているのでなんとなく道を覚えてしまっているというのもある。それでもまだ見ぬ妖精王国を探して、人々は“境界の森”入っていくのだった。でも奥深くまで行った事のあるオノラには分かっていた。どこまで行っても妖精の国などはなく、実際には他国まで続いているただの森なのだと。
「前に言ったよな? 森に行く時は必ずカイか僕に声を掛けろと。一体何度言えば守ってくれるんだ?」
実際は威圧的な態度だが少し離れた他人から見ればきっと、懇願する眼差しは求愛しているようにも見えるだろう。これが街の女性達から時々受ける嫌がらせの原因でもあった。
「アーチ、お願いだから外では私を甘やかさないで」
「何故? 妹を心配するのは兄の義務じゃないか」
「あーー!!」
オノラは声を上げるとアーチボルトの言葉を遮った。町ではアーチボルトと兄妹だと言う事は秘密にしていた。と言っても本当の兄妹と言う訳ではない。あくまで共に育ったという意味なのだけれど、これ以上注目されるのは良い意味でも悪い意味でもごめんだった。
被っていたマントを更に深々と被ると、大通りから外れた坂道にある一軒家へと倒れ込むように入って行った。
軒先には診療所とぶっきらぼうな字で書かれているせいか、中は閑古鳥が鳴いていた。
「やっと戻って来たか! アーチにも会えたようだな」
カーテンの隙間から入る日差しを避けるように顔に新聞を乗せていたのは、オノラの育ての親で薬師の師でもあるカイだった。昼寝というにはあまりに長椅子の周りが散らかっているように思う。それに換気をしていないのか酒と薬草の匂いが混ざって徹夜明けのオノラには耐え難い臭いになっていた。
「カイ、あれほど何度もオノラに付き添ってくれと言っていたのに、これは一体どういう事だ?」
「待て待てそう怒るな。何度も言うようにオノラはもう立派な薬師なんだ。危険なんかないんだよ! それよりもなんか食いもん作ってくれよぉ」
「うるさい。お前はそこらの野菜でもかじっていろ。オノラはしっかり休息を取るように。いいな? カイの飯なんか作らずにお前はちゃんと食べて休むんだぞ?」
言うだけ言うと家を出て行った背中を新聞の隙間から見ていたカイは、オノラと目が合ってまたすぐに新聞を元の位置に戻した。勢いよくその新聞を剥ぎ取ったオノラはその日付を見るなり溜息を吐いた。
「聞きたくないけど一応聞いてあげます。一体この三日間何を食べて生きていたんです?」
家を開けたのは丸三日間。新聞の日付はその前日のもので、確か行ってきますを言った時もカイはこの長椅子にいなかったか。変わったと言えば、酒らしき空き瓶が六、七本転がっている事くらいだった。
「ぐうぅぅ〜〜〜……」
その瞬間、カイのお腹から盛大な腹の虫の音が鳴った。
「まさか本当にお酒だけ飲んでいたんですか?」
「まさか。ナッツとかナッツとか、ナッツとか位は食った」
「ナッツしか食べていないじゃないですか! 全くもうッ! くぅ〜〜……」
叫んだ声と被るように自分のお腹からもか細い腹の虫が鳴く。長椅子に寝転んだままのカイから小さく吹き出す音が聞こえた。
「先生! 私はいいんですよ! ろくに食べてなかったんですから」
「嘘つくな。どうせ行き当たりばったりに歩いても美味い果物を見つけて食い放題だったくせに。アーチも心配性だよな。お前は放おっておいても死にそうもないのに」
「こんなんだからアーチも先生を見限って早々に神殿に入ったんですよッ。納得です!」
「勝手な事ばかり言いやがって。小さなアーチと赤ん坊のお前を見つけた時に戻りたいよ。そしたら絶対に拾わずに帰る! 絶対にな! それが嫌なら飯作ってくれよぉ!」
「それが嫌ならって、もう拾ってるじゃないですか……」
アーチボルトはああ言っていたがカイにこれ以上何も食べさせない訳にもいかず、オノラは溜息を吐くと台所の床にある跳ね上げ式の扉を開けて、その中へ麻袋を落とすと燭台を持って下へと降りて行った。下は急な階段になっている。上の部屋よりもやや狭い地下室内で慣れたように籠を取ると、ウロウロと棚を上下に見渡した。
「とは言っても三日振りだから何かあったかな」
一階とは打って変わり、ひんやりとした空気に不思議と安堵してしまう。この暗い地下室も、涼しい空気も、オノラにとっては一番落ち着く場所だった。地下室には常に食材が常備してあるが、カイが自分で買い物をする物と言えば酒かつまみになるものくらい。だから三日前から何も変わっていない棚の手前から日持ちするからと買い込んでいるじゃがいもと玉ねぎ、それとチーズを放り込むと硬いパンの匂いを嗅いでそれも放り込んだ。カイはいつの間にか起きて椅子に座っていた。
ボサボサだと思っていた髪は整えられ、黒い髪は後ろに綺麗に結んである。シャツにズボンだけの格好のはずなのに妙に整って見えるから余計に苛立ってしまう。籠を思い切り机に置くと、カイは無精髭を生やした顔で大あくびをしていた。
「どうしたんだ? そんな仏頂面で」
そう言いながらカイは、何故か二度見をして固まっていた。
「……なんです、人の顔をジロジロと」
「お前、いくら何日も徹夜で森を徘徊していたとはいえ、いくらなんでも酷いぞ」
さすがに引いている視線から逃げるように玄関にある鏡を覗き込むと、自分でもがっかりする程に疲れ切った顔が映っていた。アーチボルドが言っていたのはこの事だったのだ。確かに具合が悪そうに見られても仕方ないのかもしれない。三編みは所々解れているし、それに加え、森をあちこち歩き回っていたせいかマントは汚れて泥まで付いていた。
「アーチのせいだと思ったけど、私のせいかもしれませんね」
「なんの事だ?」
「……別になんでもありません。ただ私は先生の仰る通り女失格だなと改めて実感していただけです」
「へぇ、そりゃ凄い時間の無駄だな。お前はずっと昔から変わってないだろ。化粧よりも薬草、男よりも新しい薬の開発、だもんな。 それで今は何を作ってるんだ?」
「適当ですって、名前なんてありません。とにかく食べられる物を作ります。そりゃもう腹ペコなので」
若干不貞腐れながら野菜をざく切りにして炒め、手製のバジルソースを絡めていき、その上からチーズを削って掛けた。硬いパンは薄く切ってバターを溶かしたフライパンでさっと焼くと、カイは可もなく不可もない表情で出来上がった料理を見つめ、机に置かれた瞬間、黙々と頬張り始めた。
「美味しいですか?」
頬をパンパンに膨らませながら黙々と食べるカイを眺めながら、オノラもパンを口に運んでいく。確かにカイの言う通り、森の中で果物は沢山見つけたがパンはなかった。だから久しぶりのパンにどうしても唸りたくなってしまったのだった。
「う〜ん! んまいッ!」
「そこまでじゃないだろ? 名前のない飯ってくらいの味だ」
「それじゃあもう食べないで下さいよ」
「やめろ! 離せ! こら、返せ!」
皿の取り合いをしていると、不意に玄関の扉が叩かれた。
「患者さんですよ。ほらほら、仕事して下さい」
しかしカイは食べるのを止めようとしない。オノラが渋々立ち上がった瞬間、痺れを切らした向こうの方が扉を開けてきた。
「失礼、こちらに治療師のカイ殿はいらっしゃる……」
入ってきたのは見てすぐに貴族だと分かる青年と、兜を被った兵士の姿だった。オノラがギョッとして足を止めると、向こうも同じように足を止め、扉を閉めてしまった。
「あの、こちらにカイ殿はいらっしゃるだろうか?」
扉は再び少しだけ開かれ、そこから声がした。
「おりますがどうなさいました? 急患ですか? もしそうならこちらではなく神殿の方が……」
オノラが扉を押し開くと、二人は見間違いではない程に顔を引き攣らせていた。見る所どちらも具合いが悪そうには見えない。一人が看板に目を向け、そして首を振った。
「患者ではありません。治療師のカイ殿に用事があって来たウィリアム・フランと申します」
「それじゃあ中にどうぞ」
そう言いながら改めて玄関から見る室内の状況は散々たるものだった。それに臭いも酷い。薬草の匂いは診療所なのだから仕方がない。でも酒の混ざった臭いに、たった今作ったバジルソースの匂いが混ざり合い、それはもう独特な匂いへと変わっていた。
「えっと、どうしましょうか。と、とりあえず換気しますね!」
オノラは慌てて窓を開けようとした所で、背中に影が出来た。
「先生? どうしました?」
上を見上げると、無精髭を生やしたカイが見下ろすように貴族らしき青年と兵士を見下ろしていた。カイは大抵の男性よりも背が高く、それでいて程よく筋肉が付いた身体はそれだけで見栄えがする。
ーーそれもこれもこの無駄に顔と身体付きの良いせいなのよね。中身はぐうたらおじさんのくせにッ。
頭の中で文句を言っていると、大きな手で頭を鷲掴みにされた。
「うるさいぞ、少し黙っていろ」
「何も言っていません」
「目がうるさい」
「そんな理不尽なッ!」
「あなたがカイ殿ですか?」
貴族らしき青年はさすがに顔を顰める事は止めると、値踏みするようにカイの真正面に立った。見るからに上等な服を着て、赤みがかった髪は後ろに撫で付けているが若いように見える。
「そうだが?」
カイは見るからに身分の高そうな相手にも態度を変える気はないらしく、じっと見下ろしていた。兵士が僅かに動いたのを察したウィリアムはそれを遮るように一歩前に出た。
「失礼しました。私は後宮で医官をしておりますウィリアム・フラン。この者は護衛のサンと言います」
ウィリアムが胸に手を当てて礼を取る。綺麗な薄茶色の瞳が優しそうな印象的の紳士だった。貴族ならばいくら用事があるとはいえ、こんな風に平民のカイに丁寧に挨拶をしなくてもよい。それだけで何か重要な用があるのだろうとオノラにでも分かった。
「それでそのフラン家の遣いが何の用だ?」
「私はフラン家の遣いではなく後宮の医官として、エブリン王妃様の遣いで参りました」
名前を聞いた途端、カイは表情を消した。
「興味ないね」
「……えっと、私の聞き間違いでしょうか」
「だから興味ないって」
「エブリン王妃様からの書状をお預かりしているのですよ?!」
「しつこい奴だな。国王だろうが王妃だろうが俺はもう関わりたくないんだよ」
その時、カチャリと金属音が鳴った。兵士は腰の剣に手を掛け恐ろしい視線でカイを睨み付けていた。
「今のは王族を侮辱する発言だな。このまま連行する!」
「サン、だったか。兵士ごときが勝手にそんな事を決めていいのか?」
カイの言葉にも怯まず、サンはなおも鋭い視線でカイを見返している。オノラは挑発するようなカイの視線を断ち切るように腕をぐいっと引っ張った。カイは微動だにしなかったが、ぶら下がった形のオノラを憐れそうに見てきたから、意識を削ぐ事には成功したようだった。
「お話なら中で伺いましょう。ね? 先生いいですよね?」
渋々横にずれたカイが何も言わなかった事が了承の合図と取ったオノラは、玄関先で立ち尽くす二人を中へと引き入れた。
適当に足で追いやった酒瓶や新聞紙を見ながら、オノラは台所でお茶を淹れようとしていた。
「茶は出さなくていいぞ。どうせお貴族様は庶民の飲みもんなんかには口を付けないだろうよ」
「それなら私は部屋に行っていますから後はどうぞごゆっくり」
気を利かせたというよりも、眠気が襲ってきていたので一刻も早く部屋に引っ込んでしまいたいというのが本音だったが、舌打ちと同時に指でクイッと合図がくる。そしてその指は隣の椅子を指していた。仕方なくカイの横に座ると、なんとか座りながら意識を手放す事だけはないようにと、掌に爪を立てていた。
「早速ですが本題に入らせて頂きます。エブリン王妃様より、カイ殿をお連れするようにと仰せつかっております」
「家の中には入れてやったが話を聞くとまでは言ってないんだがな」
「先生、その口の利き方はまずいんじゃ……」
「は? 勝手に押しかけて来ておいて知ったこっちゃないね」
気のせいだろうか、オノラでも気がつく程の殺気が兵士から伝わってきているというのに、それにカイが気づかない訳がない。どう見ても挑発しているとしか思えなかった。
「一応申し上げておきますがこれは命令ではありません。あくまでも友人としてのご招待だそうです」
「友人? 寒気がするな」
兵士はとうとう立ち上がろうとしたが、ウィリアムはそれを抑えるように視線で制すると更に続けた。
「失礼ですがエブリン王妃様とはどのようなご関係なのか伺っても宜しいですか?」
「関係も何もほとんど話した事はないさ。むしろ向こうは俺の事を憎んでいたと思うけどな」
「憎んでいた、ですか? エブリン王妃様は、カイ殿はきっと来てくれると自信がおありのようでしたが……」
「それはきっと皮肉だろ」
「とにかく、エブリン王妃様は唯一のお子であるイーサン王子のお世継ぎ問題に頭を悩ませておられます。現在陛下には王妃様と二人の寵姫様の間にそれぞれ皇子がお一人ずつおられますが、そのどなたにもまだお子はおられません。この度、末の皇子であるメイソン皇子殿下が成人されるのを機に、陛下は一番最初に子を成せた者に王位継承権一位を授けると宣言されました」
「それじゃあ、さっさとご自慢の後宮で子を作ったら良いじゃないか。良いよな王族は。堂々と妻を何人も持てるんだから」
オノラはカイのいつも以上の口の悪さに、机の下でカイの足を蹴った。
「お前! 何すんだよ!」
とっさにウィリアムが机の下をちらりと覗いた為、オノラは何事もなかったように明後日の方に視線をやった。
「あの、やっぱり私は部屋に戻らせてもらいます。実は徹夜明けでこのままでは失礼な事をしてしまいそうでして」
「そうでしたか。それならこちらの事は気になさらず……」
「駄目だ! お前もここにいろ」
「なんでです? 酷いじゃないですか。先生が怠けているからいつも私が苦労しているんですよ!」
「怠けているんじゃない。俺はここで患者を待っているんだよ」
「患者なんて一人も来ないじゃないですか! 来るのはいつも先生に色目を使う女性ばかりなんですから! どこがいいのよこんな怠け者!」
するとウィリアムは驚いたように目を瞬かせた。
「あの、失礼ですがお二人は親子ではないのですか?」
「こんなにでかい娘がいてたまるか。俺はまだ三十八だぞ」
「さっきから王妃様の遣いの方になんて口の利き方をするんです! 本当に連行されちゃいますよ!」
「私は気にしておりませんから落ち着いて下さい。それではカイ殿が後宮にいらした時はお幾つだったのでしょうか?」
「さあな、確か十六くらいだったんじゃないか」
ウィリアムの顔から血の気が引いていくのが見て取れた。
「そんなにお若くしてあのお役目を全うされたのですか?」
「全うも何も俺は何もしちゃいないさ。実際はただ子作りを見せられていただけだからな」
「子作りを見せられていた?! 先生、何をしていたんですか。というか後宮にいたんですか?」
カイは面倒くさそうに背もたれに寄り掛かった。
「フロスト王国のアマーリエ王女が陛下に輿入れした後、どうしてもアマーリエ王女とお子を作りたいと皇帝陛下自ら申し出があったのさ。最初は妊娠しやすい薬を用意するように言われたんだ。その時は王都で商売をしていたからな」
「それなのに後宮に? 後宮は男子禁制じゃなかったっけ……」
詳しい事は分からないが、それくらいならオノラでも知っている。後宮は国王や王子の妻や寵姫が暮らす場所で、そこに出入り出来りするには幾つもの許可と監視が付いてやっと叶うのだと聞いた事がある。そんな後宮にカイが出入りしていたなど到底信じられなかった。
「……よく私通の罪で処刑されませんでしたね」
「あのなぁ、俺は面倒な女には手は出さないんだよ。もう分かっただろ? アマーリエ王女が孕む手伝いをした俺をエブリン王妃は憎んでいるんだ」
「?!」
その言葉にはさすがにウィリアムも顔を強張らせた。
「カイ殿! いくらなんでも言葉が過ぎます。証拠もないのに今の発言はそれこそ刑罰ものですよ」
「本当の事だけどな。それなら俺を捕らえるか?」
「……エブリン王妃様のご意思に背く事になりますので、今のは聞かなかった事にします。改めてカイ殿、一緒に来てくれますね? なに簡単な事です、アマーリエ王妃にされたように妊娠しやすい体作りと、その時が来たら薬も作って頂いたいのです。あとはイーサン王子の子作りを見守って頂ければ結構です」
面倒くさそうに頭をガシガシと掻いたカイは深い溜息を吐くと、膝を叩いた。
「要は王子の子作りを手伝えれば誰でもいいって事だよな。それならオノラ、お前が行って来い。オノラはすでに薬師としては一人前だし、治療師としての知識も与えているから問題ないだろう」
「ですがエブリン王妃様はカイ殿にと……」
「それは俺に弟子がいると知らないからだろ? なんと言われようと俺は行けない、それにオノラを行かせるのにも条件がある」
「……一応聞きましょう」
「報酬は前払いで先に頂く。今回みたいは要請は今度二度と行わない事。それと、一人が子を成した時点オノラをここへ戻す事。それだけだ」
「それだけって、報酬は早急にお支払い致しますがそれ以外の二点は私の一存では決めかねます」
「そうかそうか、それなら出口はあちらだ。せいぜいエブリン王妃様に宜しく伝えてくれ」
カイがウィリアムの背を押し出そうとした時だった。兵士の剣がカイの喉元に突きつけられる。しかしカイは表情一つ変えずにじろりと兵士を見据えた。
「勝手に押しかけてきて勝手な要求をしてきて、挙句の果てには斬ろうってか。やっぱり貴族ってのは俺達を人とは思っていないんだよな。協力なんてまどろっこしい事しないで貴族らしく権力を振りかざして連行したらどうだ?」
「剣を下ろすんだ。聞こえなかったのか? 下ろせ」
兵士は兜の中からぎりりと歯を食いしばりながら、剣を納めた。
「希望としてはそちらのご意思で同行してもらいたいと思っています。先程の要求を飲めば同行してくださるという事でいいですね?」
「ああ、俺は構わない」
「そちらの方のご意思を伺ってはおりませんが」
「オノラは大丈夫だ。俺が行けと言ったら必ず行くから」
「先生! また勝手な事を言って」
「オノラさん、あなたのご意思はいかがですか?」
オノラは無表情のままのカイを見て深い溜息をついた。
「いいですよ、先生の言った条件を飲んでくれるのなら行きます」
「もちろん約束は必ず守ります」
「どうやって? 相手は王妃だぞ? オノラを返さないと言ったらどうするつもりだ?」
「それは心配には及びません。きっとイーサン皇子が味方になってくれるでしょう。それでは出発の準備にどのくらいかかりますか?」
「それでは準備に一日下さい」
「分かりました。それでは出発は明日の午後にしましょう」
ウィリアムはどこか安堵したような顔で笑った。
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