2.後宮の主

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2.後宮の主

 後宮とひと括りにしても、実際は五つの宮で構成された造りになっていた。本宮が寵姫達の住む場所で、子が生まれれば寵姫達は専用の宮が充てがわれる。それぞれには門があり、入り口は女性の騎士が護衛していた。しかし宮の全てが使用される事はなく、過去を遡っても五つ全ての宮が埋まった事はなかった。  現在使用されているのは三の宮までで、各宮は高い壁で仕切られていた。 「罰せられたくなければ今すぐに出ていけッ!」  王子の中で一番若く、軍人のメイソンは、見下されただけでも震え上がる程の威圧的な顔つきで、今ままさに三の宮の自室のベッドに潜り込んでいた女性を見下ろしていた。母親譲りの茶色い髪は短く切られ、頬や首、捲られた腕にも切り傷が幾つも見て取れる。それでいてシャツ越しにでも分かる程の筋肉は、メイソンが王子としてよりも軍人として歩んできた事を示していた。  若い女は泣きながらベッドを這い出ると、乱れた胸元を掴みながら飛び出していく。靴も履かずに裸足で横切る姿に手を伸ばしかけたが、メイソンはぐっとその手を引っ込めた。乱暴に頭を掻き毟るなり、ベッド近くで脱いであった華奢な靴を掴むと廊下の柱近くに控えていた侍女頭に渡した。侍女頭は呆れたようにこちらを見ながら、靴を受け取った。 「今度は一体何が気に入らないんです? 美しいご令嬢だったと思いますけどねぇ」  侍女頭は本当に分からないと言わんばかりの顔で、受け取った美しい華奢な靴を眺めながら言った。  国王の寵姫であるジェーン・デイカーに昔から仕えているこの侍女頭は、時として母親よりも母親ぶる時があり、メイソンは疲弊した気持ちでその顔を睨めつけた。 「サラ、今週で何人目だ? いい加減にしないと自分の部屋なのに休む事も出来ないだろ!」 「今のメイソン様にはお休みになる事よりもお世継ぎを作られる事の方が重要でございます」  サラは母親よりもずっと年上の為、メイソンからしてみれば見た目は弱い老人のように見えてしまう。もちろん背筋はすっと伸びているし、長年使用人として働いてきたのだから身体もしっかりしている。それでもそのような年齢の女性を頭ごなしに怒るなどとても出来なかった。 「とにかくしばらくは放おって置いてくれ。もう少ししたら成人の儀式があるだろ。こう毎日毎日、寝室に見知らぬ女を送り込むなら俺は今まで通り軍部の宿舎に帰るからな」  するとサラの視線がすっと細められた。 「それはつまり、ジェーン様のお立場はどうでも宜しいと、そう仰っておられるのですね?」 「そうではないがこうも何度もというのは……」 「それならばお日にちをお決めしましょう! メイソン殿下の良いというお日にちにのみ、こちらで選んだ女性と夜伽をしてもらいます」 「だから急過ぎだと言っているんだよ!」 「どこがでしょうか? 陛下が先日出された王命には誰であろうと逆らう事は出来ませんよ」  メイソンは息を止めてサラを見た。 「メイソン様がお子を成さず、もしイーサン殿下やフレディ殿下が先にお子を成されたら、ジェーン様がどういう扱いになるかお分かりですよね?」 「それは分かっているさ」 「それならばどうか誰よりも先に……」  その時、遠くで悲鳴が上がった。メイソンはサラをその場に残して廊下を走ると、三の宮の門へと向かった。到着した時、廊下に倒れていた母親が目に飛び込んできた。 「母上!」  メイソンは倒れている母親を抱き起こそうとしたが、その手はすぐに押し返され逆に頭を押されてしまった。 ーーこんな状況なのに頭を下げろというのか?!  頭を押している小さな手は震えている。ちらりと横を見ると、震えながら自らも頭を下げる母親の姿が目に入った。 「誰かと思ったらメイソンじゃないの」  フロスト王国から嫁いできた生まれながらにしての姫は、落ちているゴミでも見るような視線を向けてきた。 「ずっと軍にいるからもうここにはいないのかと思っていたけれど、まさかこそこそと後宮に出入りを始めていたとはねぇ」 「たまたま用事があったので立ち寄ったまでです」  国王が王太子の条件を正式に発表されて以来、メイソンが後宮へ足繁く通うようになったのは事実だった。それはいつもにも増して不安がる母親を慰める為であり、自分を支援してくれている家臣達への配慮でもあった。 「それにしても、いつ来ても三の宮は陰気だこと」 「本宮や一の宮、それに二の宮はいつもきらびやかで華やかですものね」  アマーリエの後ろに控えていた侍女が小さく笑ったのを、メイソンは僅かに顔を上げて睨み付けた。侍女と言ってもアマーリエに仕える侍女達は皆、フロスト王国から付いてきた子爵以上の貴族の出で、王子であるメイソンにすら礼儀を見せない者達ばかりだった。そんな女達が侍女上がりの寵姫である母親を敬うはずがない。拳をきつく握りしめていると、隣で小さく謝る声が聞こえて聞こえてきた。 「……しわけございません、申し訳ございません。申し訳ございません」 「ッ!」  メイソンはガバっと顔を上げると、立ち上がって床に付くほど額を近付けている母親に手を貸した。しかし頑なに起き上がろうとしないその姿に、メイソンは立ち上がってアマーリエを見下ろした。 「母が何か無礼を働いたのでしょうか? それでしたら私の非でもあります。どうか教えて頂けませんか?」 「アマーリエ様を見下ろすとは一体どういう事ですか! その態度が無礼ですよ! 後宮の管理者代理として見回りに来られた所を、何故か驚かれたその者が勝手に倒れてしまったのです」  メイソンは出しゃばった侍女をじろりと睨みつけた。 「それでしたら立ち上がらせても構いませんね?」  アマーリエは扇で口元を隠したまま、コクリと頷いた。 「さあ母上。いつまでもそうしているのはかえって失礼に当たります」  ようやく立ち上がったその姿に、再びクスクスと笑い声が漏れる。メイソンは辺りを一瞥すると女性の前で普段は抑えている軍人としての視線でゆっくりと一瞥した。声はピタリと止まり、その代わり好奇に満ちた視線が集まった。 「アマーリエ様に謝罪を要求します。アマーリエ様の侍女は先程私の母を貶める発言をしました。母は第二寵姫です。それをそこの者と呼び、王子である私に声を荒らげました。ここにいる全員が聞いていたはずです」  抱き寄せている母親が驚愕したように自分を見上げている事は、今だけは見えない事にして続けた。 「寵姫を侮辱する事は国王を侮辱するも同意。そうは思われませんか? アマーリエ様」 「アマーリエ様になんて事を……」  侍女は顔を真っ赤にして声を張り上げた瞬間、アマーリエが扇が開いて侍女の顔の前に出した。顔の隠れてしまった侍女は震える声でアマーリエの名をか細く呼んだ。 「ア、アマーリエ様?」 「この者に鞭打ち十回。二日食事を抜く事で謝罪としてもらいたい」 「鞭打ちなど必要ありません。今この場で謝罪を……」 「してもらいたい!」  カーブを描いた形のよい細い眉がぴくりと動く。メイソンは溜息を吐くと頷いた。 「アマーリエ様? 御冗談ですよね? アマーリエ様……」 「喚くな騒がしい。早く連れて行き早急に罰を与えよ」  侍女が他の侍女達に連れられて三の宮の門を戻っていく。メイソンはそれでもまだ残るアマーリエとその侍女達を見渡した。 「エブリン王妃様はアマーリエ様に後宮の管理を任されたのですか?」 「ご多忙なエブリン王妃様に変わり、こうして見回っているのよ」 「エブリン王妃様のご指示ではないのですか?」  すると初めてアマーリエの表情が強張った気がした。母親がガタガタと震え出している。その腕を引いて後ろに隠すと、メイソンは一歩前に出た。 「ちょうど王城に行く用事がありましたので、エブリン王妃様に直接確認して参ります。後宮の管理をアマーリエ様にお任せになられる程にご公務がお有りのようなので、これを機に三の宮の管理は母にお任せくださるようにお願いしてみようかと思います」 「勝手にすればよい! しかし三の宮のみとはいえそのような事を口にすれば、エブリン王妃に楯突くも同意だという事を忘れるでないぞ」  アマーリエが去っていった後、何度も何度も背中を叩かれた。 「なんて事をしたの! なんて事をしたのよッ! あの人はあなたのせいで酷い目にあってしまうのよ!」  メイソンは拳を握りしめると、いつの間にか到着していたサラの方へ行くように母親の背を押した。それでも宙を叩くように腕を振っている。涙を湛えた瞳から逃れるように背を向けた。  後宮にすら仕えていなかった侍女が国王の気まぐれで子を孕んだ為、国王に指名されたデイカー男爵の養女となった平民出身の心優しい女性。それが母親であるジェーンだった。それまで王城の侍女として働き、自由に王城と街を行き来していた少女は、突然後宮に押し込まれて寵姫となり、この三の宮の主となった。 「暖かくして休ませてくれ。もし俺がここにいない時に何かあれば、すぐに軍部に遣いを寄越せ。急ぎであればイーサン兄上の所でも構わない」 「イーサン殿下ですか?」 「アマーリエ様を止められるのはイーサン兄上くらいなものだろう」 「エブリン王妃様には本当にお話されるのですか?」 「やめて! メイソン駄目よ! 殺される、きっと殺されてしまうわ」  母親がこれだけ怯えるのも無理はない。本宮では寵姫達が命を落とす事は珍しくなかったし、まだメイソンが幼い頃、実際に三の宮で毒入りの菓子を食べた母親とサラが生死の境を彷徨った事もあった。その時は後宮の医官が素早く処置をしたおかげで一命を取り留めたが、殺されそうになったという事実を受け入れる事が出来なかった母親は、他の寵姫達に対して更に怯えるようになってしまった。 「心配しないで下さい、母上。私が必ず母上を守ってみせますから」  そう言い残すと、振り返らずに三の宮を後にした。
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