5.魅惑の寵姫達

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5.魅惑の寵姫達

 後宮に来て早三日。未だに王子達に会う事は出来ずにいた。 「それで、具体的な案はあるのかな?」  日中は後宮に留まっているが、夜はフラン家の別邸に戻って来ていたオノラは、応接間でウィリアムと顔を突き合わせていた。時刻はまもなく頂点を過ぎようとしている。本当なら疲労ですぐに眠くなってもおかしくないが、進展のないこの状況にとても眠ってなどいられなかった。成果を挙げなくてはいつまで経っても家には帰れない。家に帰っても待っているのはカイだけだが、アーチボルトもいるし、たまに意地悪をしてくる女達もいるが仲の良い者達ももちろんいる。子供の頃から育ってきた場所が恋しくなるのは当たり前の事だった。 「ウィリアム様はお休みになって構わないですよ。私はもう少しこれを読んでからにします」  すると机がコツコツと叩かれ、オノラはとっさに顔を上げた。 「移動中から思っていたんだけれど、その手帳はなんだい? 確かカイ殿が寄越してくれたものだろう?」  ウィリアムの言葉に改めて自分の持っていた手帳に視線を落とす。女性の手には大き過ぎる手帳の革表紙は使い込まれていたように柔らかく、濃く色ムラのある茶色をしている。しわの入り方も年季が入っており、所々補修されている所が見て取れた。出発前にカイに投げ渡された物。最初は本だと思い鞄に仕舞ったままだった。道は草原や砂地の続く何もない景色へと変わった為、最初はそれでも知らない広い土地に胸が高鳴りずっと窓から外を眺めていたが、とうとう飽きた頃にカイの思惑に乗るのが癪に触りながらも手帳を開いた。 「これは先生が作った教科書みたいなものです」 「薬について細かく書いてあるのかな? それとも治療に関する事かな。どちらにしても医官としては凄く興味があるな」 「それが、薬についてはほとんど何もないんです」  ウィリアムが席を立って手帳を覗き込んでくる。その瞬間、顔を真赤にして手の中から手帳を奪うと、勢いよくバタンと手帳を閉じてしまった。 「……君はあの馬車の中でこの内容を繰り返し読んでいたのか? ここへ来てからもずっと?」 「お言葉ですが、私がこれから目にするのはもっと生々しいものですよね?」  ウィリアムが閉じて机の上に置いてしまった手帳に手を伸ばした時だった。 「駄目だ! こんな物を女性に見せる訳にはいかない!」 「もう何度も見ていますから大丈夫ですよ。それに私だってそれくらいの覚悟は出来ていますから」 「そもそもこんなのは関係ないじゃないか! オノラは寵姫達がお子を授かりやすいように手を貸すだけだろ!」  じれったくなりウィリアムの手から強引に手帳を奪い返すとパラリと手帳の間から紙が落ちる。そこには男女の睦み合いの様子が大きな絵が描いてあった。 「子供を孕むのに体位も重要だなんて初めて知りました」 「た、体位?! そんな言葉を口にするものじゃないぞッ、仮にも君は若い女性なんだから」 「私だってもう二十六ですよ。それに私は仕事として見ているんです。決してウィリアム様のように邪な目では見ている訳じゃありません」 「誰がいつ邪な目で見たというんだ!」 「そうじゃなければそんなに焦ったりしないでしょう? というか、ウィリアム様のご年齢をお伺いしておりませんでしたね。お若くお見受けしますけど、私より少し年上という所でしょうか?」  するとウィリアムは背筋を正して座り直した。 「今年で三十二歳になる」 「……そうなんですね」 「なんだその棒読みは。言いたい事があるならはっきりと言うんだ」 「いや、ウィリアム様も色々謎が多い方だなと。質問は沢山ありますがなんとなく今は止めておきます」 「聞きたい事があるなら答えられる範囲で答えるよ。そうじゃないと君が私を信頼出来ないだろう?」 「いや、でも」 「後宮ではそんな風にモジモジしてはいけない。相手に漬け込まれるだけだよ。いいね?」 「それじゃあ単刀直入に聞きますが、ウィリアム様はどうして後宮で働く事が出来るんですか? 警備をするのも女性の騎士様でしたし、何となく寵姫様方の対応も少し気になりました。気安いとうか、それが許されているのが少し不思議といいますか。後宮の中にも男性はいなかったですし。それに、三十二にもなるのにどうして独身なんでしょう」  気になっていた事が怒涛の勢いで口から溢れ出してくる。呆気に取られていたウィリアムは一つ小さく頷くと、今日の天気でも話すそうに口を開いた。 「そんなに私に興味があるとは知らなかったな。いずれ誰かから聞く事になるだろうし、この事は話しておいた方がいいだろうね。実はね、私は不能なんだよ」 ーーえ?  聞き間違いかと思い言葉を返せないでいると、ウィリアムはぬるくなったであろう紅茶を口に含みながらもう一度言った。 「私には男性としての機能がないんだ。だから一晩同じベッドで眠ったとしても君の身は安全だし、誰からも疑いの目で見られる事はないんだよ」 「……まさかそれは周知の事実という事でしょうか?」 「そうじゃないと後宮では働けないよね」  にこりと笑って答えた表情と、言われた言葉の内容が合致せず、ただただ呆然とするしかなかった。 「それじゃあ作戦に入るけれど、オノラには何か案はあるのかな。もし無いなら私からの提案をいいだろうか」  とっさに手に持っていた手帳を開いたが、正直ウィリアムの言葉が頭の中でグルグルと回り、それどころではなかった。 「オノラ? 大丈夫かい?」 「だ、大丈夫です! どうぞ、ウィリアム様がお話下さい!」 「まず明日は、寵姫様方と面談をさせて頂こうと思う。“月のもの”の周期や体調などをお伺いし、一番子作りに適していると思われる方からイーサン王子と夜を共にして頂く順番を決めようと思うんだ」 「あの、もしかして今までそのような事もせずにただ王子の気まぐれで夜伽をされていたのでしょうか? 正直な所、周期がずれると子種の無駄撃ちになると言いますか……」 「後宮で働く上で言葉遣いも習う必要がありそうだね」 「治療と言葉は関係ありません」 「後宮にいらっしゃる寵姫様の方々の大半は皆貴族のご令嬢達や、隣国から嫁いでこられた姫君達なんだ。オノラが普通の会話だと思った事でも寵姫様達の機嫌を損ねれば子作りの指南どころではなくなるよ」  正論で返されてしまえばオノラに返す言葉がある訳もなく、お茶に手を付けた。 「今までこういう閨関係の事は各宮に任されていたからね。それに王子方は正直言って手強いよ」 「手強いとは?」 「あまり後宮には寄り付かないんだ。理由はそれぞれあるだろうけれど。でも今回は陛下のご命令もあるし、その内渋々顔を出すんじゃないかな」 「でも王子様三名分の寵姫方の管理だなんて、正直心が折れそうです」 「なにも一人でやる必要はない。オノラは一の宮に付いてくれ。他の宮には医官達にやり方を伝えるから、そちらに任せる事にしよう。エブリン王妃様は後宮の管理者としてオノラを呼ばれた訳だけれど、まずはイーサン王子にお子が出来るように尽力してくれ」 「ウィリアム様は第一王子派なんですねか?」  するとウィリアムはにこりと微笑んだ。 「私は後宮の医官だから皆平等に大切に思っているよ。ただ第一王子から子が出来た方が色々と面倒が少ないからね」 「……そういう事にしておきますか。それでは、周期が合っているお相手にはこの手帳を元にイーサン王子と夜をお過ごし頂きます。その間にも順番を控えている方々には私が調合した薬草茶やマッサージを受けて頂きます。血流を良くし、身体を温め、妊娠しやすいお身体の準備をして頂きましょう」 「そうだね、それじゃあ今日はもう寝ようか。明日も一緒に後宮へ向かうから寝坊しないように。それと、この手帳を私も見ていいだろうか?」 「やっぱりご興味があるんですか?」 「もちろん医官としてだよ!」 「はいはい、構いませんよ。それじゃあお先に失礼します。おやすみなさい、ウィリアム様」  立ち上がって扉を出ようとした時だった。入ろうとしてきた兵士とぶつかってしまう。突然の事で動揺し、そのまま部屋を出てしまったが、一瞬の事だったが相手はどこか驚いているようにも見えた。  兵士は部屋に入るなり、ウィリアムが持っていた手帳を取り上げた。そしてそのまま固まってしまった。開いた場所は、丁度男性が後ろから女性の腰を持ち上げて身体を未着させている構図の絵だった。  絵を見る限りカイは描写の才能があるらしく、それはとても精巧に生々しい描写になっていた。 「ここに私以外はいないのだから、兜を脱いだらいかがですか? イーサン様」  無言のまま手帳をソファに放り投げたイーサンは、やはり何も言わずに兜を脱いで床に置いた。 「こんな真夜中に兵士の格好をしてこんな場所に来るなんて。護衛が気の毒でなりませんよ」 「こんな格好だから真夜中でも好き勝手にこんな所に来られるんだろ。それよりなんなんだ、これは」  視線はソファの上に置いてある手帳を指していた。 「ああ、あれはあなた方王子に実践して頂く一部ですよ」  笑って言われたイーサンは心底嫌そうに眉を潜めた。 「いつまでも逃げる事は出来ませんよ。このまま王子達に世継ぎが出来なければ国の一大事なのですから」  返事はない。ウィリアムは身を乗り出すようにイーサンを見た。 「まさかまだ私に遠慮なさっているのですか?」  不意に頬が強ばる。ウィリアムはその顔を見ながら続けた。 「あなたにはお子を作る義務があるのです。私とは違うのです」 「……分かっているさ」 「分かっているなら逃げ回らずにさっさと後宮に来て下さい。こんな所にそんな格好で現れるくせに、全く」 「うるさい。今日はここに泊まるからあの女と鉢合わせしないようにしてくれ」  イーサンは不機嫌なまま兜を掴んで部屋を出て行った。 「こちらで幾つか質問をさせて頂きますので順番にご回答をお願い致します」  一の宮の談話室に集まったのは十五人の寵姫達だった。  エブリン王妃がわざわざ呼び付けた薬師という事もあり、拒む事は出来なかったらしい。それでも好意的ではないのは顔を見れば分かった。 ーー集まっただけでも良しとするべきね。  談話室は広く、集まってくれたはいいが皆バラバラに座っている為、正直誰が誰だか分からない。事前にウィリアムから寵姫方の特徴を聞いてはいたが、正直皆同じような格好をしていて見分けがつかない。頼みの綱のウィリアムも同席すると言っていたはずなのに、結局時間になっても姿を現す事はなかった。  目の前に集まるきらびやかな女性達を前に、オノラは怯みまくっていた。身分も違うがそもそも女性として持っているものが違い過ぎる気がする。それでもなんとか逃げずに一人一人見ていくと、より高位であろうと思われる二名が目に入った。  一人目はシャーロット・バイロン嬢。バイロン侯爵家の令嬢で父親のバイロン侯爵は皇帝陛下の宰相の任に付いているらしく、シャーロットは中央にある赤いベルベットのソファに座って侍女達に囲まれていた。金糸のように美しく長い髪は腰まで優雅に流れ、真ん中から分けられた前髪から覗く瞳は物憂げな儚さを纏ったとろんとした瞳だった。紫色の総レースのドレスに、深く入ったスリットからはすらりとした足が美しく組まれている。首元にも足首にも今までに見た事の無いよな宝石が付いた豪華なアクセサリーを付けていた。  二人目はオリビア・ズーシュ嬢。ズーシュ辺境伯の一人娘で、数ヶ月前に後宮に上がったと聞いてはいたが、どこか芯のある魅力的な見た目だった。シャーロットから少し後ろに座っている姿は草原に佇む黒豹のようで、シャーロットとは正反対に、意志の強さと気高さを感じた。それ以外の寵姫達も皆美しく、身体の線がくっきりと出ているものだから女のオノラでさえ目のやり場に困ってしまう。そんな女性達を集めておいて会い来ない顔も知らないのに苛立ちを感じ始めていた。 「それではまず最初の質問ですが、現在月のものがきていらっしゃるお方はおられますか?」  しかし誰も返事はない。今度は少し大きめに声を出した。 「現在月のものがきていらっしゃるお方はおられますか??」  しかしクスクスと笑い声が聞こえるだけで誰も協力しようとはしてくれない。オノラは溜息を吐きたいのをぐっと我慢した。 「それではいらっしゃらないという事ですね。それでは終わった直後という方はいらっしゃいますか?」  それでも返事はなく、好奇の視線だけが集中していた。 「なるほど、皆様はイーサン王子のお子が欲しくないという訳ですね。承知致しました。エブリン王妃様にはそのようにご報告致します」  それでも誰も何も言わない談話室に沈黙が流れる。オノラは次の流れが頭の中から吹っ飛んでしまい、言葉に詰まった時だった。 「これで終わりなら部屋に戻るわ。エブリン王妃様には薬師が仕事を放棄したと私からお伝えするわね」  呆れたように立ち上がったのはシャーロット・バイロン嬢だった。それに続くようにして他の寵姫達も笑いながら立ち上がっていく。次々と人が出ていこうとする中、一人だけ手を上げた者がいた。 「私、先日月のものが終わったばかりよ」  真っ直ぐにオノラを見て指先を揃えて手を上げていたのは、オリビア・ズーシュ嬢だった。黒い瞳に真っ直ぐな黒髪が特徴のオリビアは、表情を一切崩さずにオノラを見ていた。 「何日前だったかしら?」  オリビアがちらりと横を向くと、すかさず侍女が答えた。 「三日前でございます」 「だそうよ。医官様?」  怪訝そうに僅かに眉が寄せられる。オノラは我に返ると、手帳を一気に捲った。 「それではオリビア様は四日後からイーサン様と寝室を共にして頂きたいと思います。そこから一週間集中的に性行為に励んで頂きますので……」 「お待ちなさいッ! なぜあなたがそんな事を決めるの? 一週間もの間たった一人と集中的に夜伽だなんてありえないのよ!」  シャーロットのそばにいた年重の侍女は物凄い剣幕で捲し立てて来た。あまりの勢いに言葉を失っていると、すっとオリビアが立ち上がる気配がした。そばに歩いてくるとその侍女を見下ろした。先程は座っていて分からなかったが、オリビアはほっそりと背の高い女性だった。小尻でありながら丸い線が美しく、乳房は椀型のように張りがあり上を向いていた。 「なぜ口を挟むの? 医官様は今私と話をしていたのだけれど」  しかし侍女は拳を握り締めると、一歩前に出た。 「この者は医官ではございません! 庶民の薬師です。そのような者を医官様などとお呼びになるとはズーシュ家の恥ではございませんか?」 「私は王妃様がわざわざお手配下さった方に敬意を評したまでの事。それでは薬師様で宜しいかしら?」  侍女は顔を真赤にして何かを言い返そうとしたが、その腕を扇子で叩かれた。 「シャーロット様、この者が……」 「お止めなさい。オリビア様、私の侍女が失礼致しました。ですがこの者は私を思うあまり失礼な発言をしてしまった主人思いの侍女なのです。どうかお許し頂けませんでしょうか? さあ、お詫びなさい」 「……申し訳ございませんでした。オリビア様」 「謝罪を受け入れましょう」  黒い瞳で見下された侍女はさっと顔を逸した。 「それで、せっかくだから私も伝えておきたいのだけれど、私も四日前に月のものが終わったばかりなの。そうなると順番はどうなるのかしら?」 「……それでしたらシャーロット様の方からお先に殿下とお過ごし頂きます」 「そんなッ! それではオリビア様も期間がずれてしまうのではありませんか?」  オリビアの近くに控えていた侍女が控えめに声を上げたが、それをオリビアが制すると談話室は静けさに包まれた。満足そうに笑うシャーロットが扇で口元を隠して笑った。 「偶然にもよい時期だったのね」 「シャーロット様もオリビア様も時期としては同じくらい良いかと思われます」 「それならば当然お嬢様からですね」  シャーロットの側にいた侍女が鼻息荒く言うと、オリビアの反応を待っているようだった。 「そうですね。時期がほとんど同じでしたらシャーロット様の方が先となる事になんの異論もございません。それでは私はその後という事でお待ちしております」  黒い髪がサラリと流れて前を通り過ぎていく。その瞬間、独特の異国を思わせる香りがした。 「一週間も殿下を独り占め出来るなんて光栄ね」  シャーロットは侍女達と声を上げながら談話室を出ていく。オノラはとっさにオリビアを追いかけていた。驚きながらも立ち止まってくれたオリビアに頭を下げると、少しだけ無表情だった顔に困惑が浮かんだようだった。 「オリビア様のおかげで助かりました」 「私は何もしていないわ。ただ必要な事ならと思っただけよ。月のものの周期が子作りには必要なのね」 「はいッ、そうなんです!」  するとオリビアは本当に小さくだがフフッと笑い、その場を後にした。 ーー美しい女性の笑顔は強力な武器ね。  オリビアの笑みに心を撃ち抜かれたオノラは放心していたせいで、後ろから付いてきたその他の寵姫達の群れに気がついていなかった。 「ちょっとあなた! 私の番はいつになるの?」 「待って、それなら私の方が先よ! ねえ今が月のものの最中だけれど……」 「それなら駄目じゃない、どきなさいよ」  寵姫達に揉みくちゃにされながら全員の名前と月のものの周期を聞き終わった時には、オノラは髪も服もボサボサになっていた。  ようやく後宮にある使用人専用の食堂で遅めの昼食を取っていると、不意に隣の椅子が引かれた。 「オノラ、順調かい?」  覗き込んできたウィリアムは、申し訳なさそうに眉を下げていた。 「順調ですよ。誰かさんが一緒に頑張ろうなんて言いながらいざ寵姫様達との面会の時間になったらどこかに消えてしまいましたけれど、なんとか乗り切れました」 「すまない。どうしても抜けられない仕事が出来てしまってね。それで、本当の所はどうだったんだ?」  食欲がなく貰ってきた料理には手も付けないでいたオノラを見て、ウィリアムは不安そうに首を傾げた。 「本当に大丈夫でした。助けて下さったお方もいらっしゃいましたし」 「へぇ、もしかしてそれはオリビア嬢では?」 「なんで分かったんです?! とてもお美しい方でした」 「オリビア様は他の寵姫様とは違うからね」 「どうしてです? ウィリアム様はオリビア様と親しいのですか?」 「ズーシュ地方を知っているかい? オノラの住んでいた地域からは少し遠いから分からないかな」 「名前くらいは。確か先生からとても乾燥した土地だと聞いた事がありますけど、そのくらいしか知りません」 「領地のほとんどが砂漠と言っていい場所だよ。生きていくだけでもとても過酷な土地なんだ。それに加えて隣国と接しているからいつ戦争が起きるか分からない場所という訳だ。もちろん砂漠の地で戦うなんて誰も望んでいないだろうから滅多な事はないだろうけれど、常に緊張感に包まれているのは確かなで、過酷な土地だよ」 「蝶よ花よと暮らしてきたご令嬢とは違うと言う訳ですね」  ウィリアムは曖昧に首を傾げた。 「まあ、ここもここなりに大変なんだけれどね」 「オリビア様がご協力下さったおかげで、結果的に最初の一歩を踏み出せました。これから準備に取り掛かろうと思います」 「それじゃあ次はイーサン王子の説得か」  オノラは持っていたスプーンを落としそうになりながらニコニコと笑っているウィリアムを見つめた。 「それも私がやるんですか? 他の方が連れてきたらいいのでは?」 「それが出来ているなら苦労はしないよ。イーサン王子は人見知りだからね」 「王子が人見知りって。それならウィリアム様が連れてくればいいじゃないですか」 「そう出来るなら苦労はしないよ」  ウィリアムの言葉の意味が分かったのは四日後のシャーロットとの夜伽一日目の夕方だった。 「イーサン殿下がいないってどういう事ですか?!」 「正確にはいないのではなくて、来られません」  後宮の入り口で、イーサンの侍従だという男は戸惑った様子で後宮の入り口をウロウロとしていた。 「今日からシャーロット様との夜伽が始まるとお伝え頂いているんですよね?」 「それはもちろんです。後宮から遣いが来た時に伝えてありますが、もともとイーサン殿下は気分が乗らない時はここにはいらしゃらないので、本日もその、おそらく気分ではないんだと思われます……」 「気分で来る来ないを決められては困ります! これは公務なんですよ! とても大事な事なんです!」 「ですがイーサン殿下を無理やりに連れてくるのは不可能です」 「場所は分かるんですか?! 今どちらに??」 「騎士の鍛錬場にいらっしゃると思いますが」 「それはどこですか?」 「あそこは女性の行く場所ではありませんよ」 「いいから教えて下さいッ!」 「城門を左に大きく回り込んでしばらく歩くとありますが……」  オノラは言葉を聞くなり走り出していた。間もなく夜になる。すでにシャーロットはイーサン王子を迎え入れる為に準備をしているだろうから、まだイーサン王子が訓練中ならば早急に湯浴みをしてもらわなくてはならない。でも自分が行った所で果たして言う事を聞いてくれるだろうか。第一イーサン王子とはまだ会った事もなかった。 「こんな所で何をしているんだ?」  まだ後宮の入り口を行ったり来たりしていたイーサンの侍従を見つけたウィリアムは、足早に駆け寄った。 「ウィリアム様! 良かった、薬師の女性が、その……」 「オノラかい? 呼んでこようか?」 「いえいえそうではなくて、オノラさんがイーサン殿下を呼びに鍛錬場に行ってしまわれまして」 「鍛錬場だって?! 一人で行かせたのか?」  侍従は気まずそうに視線を逸した。ウィリアムは珍しく舌打ちをすると走り出していた。   「ですから私は後宮の遣いなんですッ! イーサン王子に会わせて頂けませんか?」 「駄目だ駄目だ! お前みたいな女が後宮の遣いな訳がないだろう。なんだその汚い格好は。証明になる物も持っていないし怪しいから駄目だ!」  確かにマントを羽織ってはいるが、決して汚い訳ではない。後宮で過ごす用にと、ウィリアムが用意してくれた物だった。鍛錬場の付近にいた騎士らしき男達がどんどん集まって来てしまう。そして興味半分にオノラを取り囲んできた。見上げる程に背も体躯も良い男達に見下され、足が震え出す。 「王子はここにはいないから早く帰れ」  一人の騎士がぶっきらぼうに言ってくる。オノラはマントの端をぎゅっと握るとその顔を見返した。 「中を確認させて頂けませんか?」 「駄目に決まってるだろう。ここは女性の立ち入りを禁止しているんだ。さあ帰ってくれ!」  促すように背中を押される。しかし無駄に力が強いせいか、オノラはそのまま転んでしまった。 「いくらなんでもやり過ぎじゃないか?」  声が上から降ってくる。騎士達とは違う黒いブーツが目の前に立った。見上げる間もなく軽々と抱き上げられた体に驚いていると、目の前にいたのは兵士の格好をした見た事もない男性だった。短い髪に無愛想な顔がすぐ目の前にある。しかし下に降ろされるとあっという間に視線は合わなくなってしまった。 「子供相手にこんな事をして、しばらく来ない間に騎士達の質は落ちたようだな」 「誤解ですメイソン殿下。この者が勝手に転んでしまっただけです。それでどのようなご用事ですか?」 「イーサン兄上に会いに来たんだ。ここにいるんだろう?」 「すぐに呼んで参ります」  騎士は踵を返すとすぐに奥に広がっている鍛錬場へと入っていく。オノラはその背中に向かって思い切り叫んでいた。 「やっぱりいるんじゃない! 嘘つきーー!」  まずいと思ったがもう遅い。とっさに上を見たが、半ば呆れたような視線が帰ってきただけだった。 「オノラ! 無事か?」  もうすっかり暗くなってしまった闇の奥からよく知る声が聞こえてくる。オノラはとっさに手を降った。 「ウィリアム様ここです! こっち!」 「全く、勝手に行くな」 「そんな事よりシャーロット様のご準備はもう終わられていますか?」 「おそらくな。今日はもう諦めよう。イーサン王子は鍛錬を始めるとかなり長い時間止めないんだ」 「でもそれじゃあシャーロット様になんて言ったら……」 「大丈夫、シャーロット様には私の方からお話するから心配はいらないよ」 「……ありがとうございます」 「もしかしてお前がエブリン王妃が呼び付けた例の女か?」 「メイソン殿下、ご挨拶が遅れてしまい申し訳ございません。この者は薬師のオノラと言います。これから後宮で顔を合わせる事もあるかと思いますので宜しくお願致します」 「……まだ子供じゃないか」  驚いているメイソンを睨みつけると、慌てたようにウィリアムに腕を引かれた。 「すみませんメイソン殿下! この者はまだ後宮に来て日が浅いのです。何卒ご寛容なお心で見守って頂けると幸いです! それでは後宮で!」 「ああ、またな」  ずるずると引っ張られていく手を振り解くように腕を引いた。騎士に囲まれてた時の恐怖が今更じわじわと広がっていく。もしウィリアムが来なかったらと思うと怖くて堪らなかった。 「私ってそんなに子供っぽいですか?」 「気にしなくていいさ。メイソン殿下は体つきに恵まれていらっしゃるから、オノラが小さく見えただけだよ」 「でもウィリアム様も最初は私の事をそう仰いました」 「そうだったかな。覚えていないなぁ」 「言いましたよ! ちゃんと覚えているんですから!」 「そんな事よりも帰って夕食にしよう。オノラが私を走らせたからお腹が空いてしまったよ」  誤魔化しながら歩き出すウィリアムの背中を追っていくと、いつの間にかさっきまで体を侵食し始めていた恐怖は小さくなっていた。
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