7.恋心

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7.恋心

 部屋にゴリゴリとした薬草をすり潰す音だけが響いていた。沢山の薬草を扱う医官室は他の部屋とは離れている。それこそ毒となる薬草もあるからだ。その為、誰にも会わないように過ごそうと思えば、一日中そうして過ごす事も出来る。ウィリアムと同じ家に帰るのがなんとなく気まずくなってしまい、結局あの険悪な夜から約一ヶ月もの間、ここに引きこもっていた。とは言ってもやる事は沢山あり、寵姫様の体調を確認したりそれぞれの時期に合わせた薬草茶を出してマッサージをし、時に暇潰しの相手をさせられ、更には宝石や菓子などの賄賂を寄越して夜伽の順番を繰り上げろと言ってくる者達までいた。そして夜にはイーサンの夜伽を見る……見る……見る。 「……ノラ、オノラ!」  声を掛けられてとっさに顔を上げると、イーサンはすでにガウンを着て、寵姫もいつの間にか部屋を出た所だった。イーサンの夜伽中に考え事をしてしまっていたらしい。とっさに頭を下げると、イーサンの溜息が頭の上から降ってきた。 「全く、一体どうしたんだ? 終始心ここにあらずだったぞ。私の夜伽はそんなに退屈だったか」 「面白いとか退屈とかそういうものじゃありません、仕事ですから。それでは私も部屋に戻らせて頂きますね。イーサン殿下もごゆっくりお休み下さい」 「待て待て。少しだけ待っていろ」 「何ですか?」 「いいからもう少しだけここにいるんだ」 「寵姫様もお部屋に戻られたのに私だけここに残っては変に思われてしまいます」  すると小さく笑い声が聞こえてきた。 「あの、イーサン殿下、本当にもう戻っても?」 「そう急ぐ事もあるまい。ずっと気になっていたんだが、何故マントを着ているんだ? 動きにくくないか?」 「マントは薬師にとって必需品なんです。私達の仕事は野山に行く事から始まりますから、中には鋭利な葉を持つ植物や危険な虫達もいます。小雨くらいならマントで凌げますし、野宿の時は防寒にも枕にもなります。それに日差し避けにもなるし、あらゆる物からマントが守ってくれるんです。それに……」 「分かった分かった! 騎士の鎧みたいなものなのだろう?」 「まぁ戦闘服という意味ではそうかもしれませんね。それではそろそろ失礼します」  しかしフルフルと首を振り、何かを待っているようなイーサンに、オノラは痺れを切らし立ち上がった。 「もう少しで面白いものが見れるだろうから……」  訳が分からずに立ち上がった瞬間、爪先が絨毯に引っ掛かってしまった。 「危ない!」  声と同時に腕が伸びてくる。オノラは目の前にあった白い物を掴んだ。庇われるように絨毯に倒れる。爽やかな香油の香りと汗の匂いが混じっている。すぐ目の前にあるのがイーサンの胸板だと分かるまでに少し掛かってしまった。部屋の扉が叩かれて誰かが入ってくる。目の前にある大きな体を押し退ける事も、這い出る事も出来なかった。 「オノラ?」  声にびくりと体が強ばる。イーサンはとっさに体を起こしたが、すでに扉の方からは女性の小さな悲鳴が聞こえた。イーサンが上からいなくなった事でとっさに起き上がって扉の方を見ると、そこにはウィリアムと女性の医官が立っていた。 「何をしているんです、殿下」 「何って、この状況を説明した所で信じるか?」 「なんでそんな誤解されるような言い方をするんですか! なんでもありません、私が滑ってしまっただけなんですッ」  しかしウィリアムは気にしていないように、“そうか”というだけでオノラを通り越してしまった。 「お疲れの所申し訳ございませんが急ぎお伝えしたい事がございます」  ウィリアムがもたらした言葉は驚く内容だった。  寵姫懐妊。  イーサンの子を宿したのは誰も予想もしていなかった寵姫だった。 「エスメラルダ……あの無駄に声の大きな、コホンッ、積極的な女か。懐妊したのがエスメラルダで良かったと言うべきが、悪かったと言うべきか迷う所だな」 「とりあえずお世継ぎが出来たという事は良かったという事なのでしょう」 「母上が後宮に入れたくらいなのだから身元ははっきりとしているんだろうが、もう一度調べる必要があるな。……なぁ、ウィリアム」 「何でしょうか?」 「あれが国母になるのは些か無理がないか?」  するとウィリアムは小さく息を止めてから答えた。 「子を産んだものが王妃となるのが昔からの決まりです」 「でも平民出身で元踊り子だぞ」 「それでも決まりは決まりですから。ご意見があるのなら両陛下にどうぞ。それと、本人と側仕えの使用人には伝えておりますが、体調が安定するまでは他言無用と言い聞かせて参りました」 「そうだな、母上には私から明日お伝えしに行こう」 「かしこまりました。それでは失礼致します。……オノラ、いつまでそうしているんだ? 殿下のご迷惑になるから早く立ちなさい」 「ウィリアム、さっきのは本当だぞ。オノラが躓いたから私が支えたんだ」 「私にそのような事をお話されなくても構いませんよ。ですがここにいてはご迷惑になるでしょうからオノラは連れていきます」 「お前達も夜遅くまでご苦労だったな。……あいつも間の悪い時に来たもんだ。そうか、子が出来たか」  イーサンは溜息をつくとベッドに突っ伏した。  廊下に出た途端、ウィリアムの歩く速度が早くなっていく。必死で追いつこうとしたが、ウィリアムが振り返る事はなかった。  翌朝すぐに医官室の上から声が降ってきた。 「オノラ様、こちらにおいでですか?」  声は控えめだが良く通る声。オノラは飛び起きると仮眠室から飛び出し、螺旋階段の上を見上げた。そこには見覚えのある騎士が下を覗き込んでいた。後宮の門番をしていたミランダだった。 「やはりこちらでしたか。エブリン王妃様がお待ちです。早急にお越しくださいませ」 「王妃様が? 何故です?」 「御用については私には分かりかねますが、王妃様はすでにお待ちですのでお急ぎ下さい」  王妃がすでに待っているとなれば返事をする間も惜しい。オノラはすぐに仮眠室に戻ると、手持ちの中で一番汚れていないマントを掴むと螺旋階段を駆け上がって行った。  久しぶりに出る後宮の外にはウィリアムも立っていた。もう約一ヶ月程、業務連絡以外の会話をした覚えがない。ちらりと視線が合ったがすぐに逸らされてしまう。それだけで胸の奥が痛んだ。  通されたのは王城にあるエブリン王妃の私室で、そこにはイーサンも居た。 「お待たせして申し訳ありませんでした」 「急に呼んだのだから構わないわ。先程イーサンから寵姫懐妊の話を聞いたの。ウィリアム、オノラ、よくやり遂げたわね」  初めて言葉を交わすエブリン王妃は、思い描いていた人物像とはかけ離れていた。  王子の世継ぎを作るようにと強引に連れて来られ、到着した時は顔を見る事すら叶わなかったというのに、今は大きな机を挟んでいるとはいえこうして顔を見て向かい合って座っている。初めて見るエブリン王妃の顔はイーサンとそっくりだった。とても大きな息子がいるとは思えない美しさで、不意に視線が合った瞬間、不躾な視線にも関わらず小さく口元が上がった気がした。 「もったいないお言葉でございます。ですが私達の功績というよりは、エスメラルダ様のおかげです。エスメラルダ様は夜伽に積極的でしたので感謝しております」 「母上、なぜ平民のエスメラルダを後宮に加えたのかお伺いしても宜しいですか?」  聞くとは思っていたが直球の質問にオノラは思わずエブリン王妃をじっと見てしまった。 「そんなの簡単な事よ。エスメラルダの家系は多産なの」 ーー多産? それだけ?  集まっていた者達が皆同じ顔をしていたのは分かった。  多産、うん、確かに重要よね、と心で呟きながらイーサンやウィリアムの顔を覗き見た。呆れているのか、イーサンはエブリン王妃を見たまま固まっている。そしてそれはウィリアムも同じだった。 「それだけですか?」 「それだけよ。でもそれが重要なの。エスメラルダが在席していた一団はそれなりに大きな規模で、公演はとても人気があるらしいの。それに団員のほとんどが親族で、更にエスメラルダは七人兄妹よ。現にエスメラルダが最初に子を授かったじゃない」 「ですが子を産めば王太子妃、いずれは王妃になるのですよ?!」 「エスメラルダよりも身分の高い寵姫が子を産めばその者がなるわね。だからせいぜい励みなさい」 「励みなさいと簡単に言いますが……」  そう言ってイーサンは口を告ぐんだ。簡単ではない。現に国王が子を授かるのにはかなりの年数が掛かっていた。それこそ、イーサンを産んだ当時のエブリンにはオノラのような手助けをしてくれる者もいない中、何年も掛けて子作りをしたのだ。それが分かっているからこそ、イーサンは母親を無碍には出来なかった。どれだけ寵姫が増えようと耐え、周囲からの役立たず、欠陥品だというあらゆる罵声を受け止め、乗り越え、今ここに王妃として君臨している。だからこそ、エブリンの“励みなさい”には重みがあった。 「エブリン王妃様、エスメラルダ様が懐妊された事でオノラは使命を果たしたと思うのですが、オノラを故郷に帰してもよろしいでしょうか? 今回の事で我々後宮の医官も学びましたのでご心配には及びません」 「契約に子の人数は入れていなかったのだから仕方がないわね。でもオノラは故郷に帰りたいのかしら」  エブリンの視線がちらりとウィリアムに向く。エブリンがどこまで知っているのかは分からなかったが、決してウィリアムとオノラの関係は周囲が生温かい目で見てくるようなものではなかった。 「家に帰ります。それに私は皆様が思うような特別な事をした訳ではありません。どうやったら妊娠しやすい体になるかを先生が手帳に残してくれていましたから。むしろこうなる事が分かっていたみたいに記されていました」 「ほう、あの男が?」 「ご覧になられますか?」  その瞬間、イーサンとウィリアムが慌てたような気がした。しかし見ると言ったエブリンを前に、今更渡せないと言える訳もなく、オノラはいつも大事に持ち歩いているカイから預かった手帳をエブリンに手渡した。しばしの沈黙が流れる。イーサンもウィリアムも顔を覆ったまま、この世の終わりのように項垂れていた。 「フッ、まさかあの男がこんな物を真剣に作っていたと思うと笑えてくるわね」  エブリンが声を出したのは最初だけで、後はもちろん堪えている。それでも肩がフルフルと揺れていた。 「……そんなに面白いでしょうか?」 「えぇ、あの男が書いたという事がね」 「先生をご存知なのですね」 「あれが来たのはアマーリエ様が輿入れされた時だったけれど、フ、フフッ」  すると今度は思い出し笑いをしているのか、扇で顔を隠してしまった。けれど笑っているのは間違いない。 「母上、もったいぶらずにお話下さい!」 「あの男はね、後宮に入る為に自ら不能になる薬を調合して飲んだのだよ」 「不能?!」 「何を驚いているの? そうじゃないと後宮には入れないでしょう」  当たり前の事だが頭から抜けていた事。あの時、カイは後宮で夜伽を見たと言っていた。本来なら女性だらけの、しかも国王の寵姫達が集まる後宮に健全な男性が自由に出入り出来る訳がない。やっとその謎が解けたオノラは、カイがなぜあんなにも後宮に戻るのを拒んでいたのかが今になってやっと理解出来た気がした。 「またその薬を飲まなくちゃいけないから嫌だったんですね! でも先生はその症状を克服している……。エブリン王妃様、私すぐに家に帰ります!」 「好きにしなさい。もう一度言わせて頂戴、よくやったわね」 「ありがとうございます!」   その時は、ウィリアムの寂しそうな視線には気づく事が出来なかった。 「ウィリアム様? 戻っていらしたんですね、あちこち探し回ってしまいました」  オノラは医官室にいたウィリアムに上から声を掛けるなり、足早に螺旋階段を降りて行った。まともな会話など久しぶりで、どんな風に話し掛けたらいいか、扉の前で何度も行ったり来たりを繰り返していただけに、我ながら自然だと思えた。 「何か用か?」  ウィリアムはちらりとだけこちらに視線を投げてきたが、すぐに手元の本へ視線を落としていた。 「それってもしかして私が書いた本ですか?」 「本当に宝だよ、これは。カイ殿とオノラの知識が詰まっているのだから」 「ほとんど先生のおかげです。こうして離れてみるとあんな先生でも偉大だなと感じる自分が妙な気分です」 「だから家が恋しくなったか?」 「恋しいというよりも急ぎ調べたい事が出来たんです」 「仕事という訳だな。何にしても本当によくやってくれた。私からもお礼を言わせてくれ、ありがとう」 「改まって言われると恥ずかしいですね」 「それで何故私を探していたんだ?」 「実はずっと試して頂きたかった薬があるんです。でも確信が持てないので一度家に帰り、先生に確認を取ってからにしようかと思いまして」 「何かな?」  いざ口にしようとすると言いにくくて堪らない。それでも言わなくては先に進まなかった。 「とても貴重な薬草があるんです。それを採り戻ろうと思います」 「そうか、それなら馬車を用意するから……」 「あのッ! ウィリアム様はもしも現在のお体の不調に効く薬があると言われたらどうされますか?」  しかしウィリアムは何も言わずにそのまま黙り込んでしまった。   「ウィリアム様? もしかしてご気分を害されましたか?」 「……誰に何を聞いたのか分からないけれど、私の体の事は君には関係ないよね? それとも抱いて欲しいのかな?」  あまりの言葉の衝撃に何も返せないでいると、ウィリアムが近付いてくる。そして目の前が暗くなった。ウィリアムが伸し掛かっているのだと気づくにはそれなりの時間が掛かってしまった。 「知っていたかい? ここに入れなくてもね、楽しむ事はそれなりに出来るんだよ」  そう言ったウィリアムの手がするりと下腹部を撫でていく。それだけでオノラはびくりと体を震わせてしまった。 「止めて下さい、ウィリアム様」  自分の物ではないと思う程に弱々しい声。それでもウィリアムはゆっくりと手を下に滑らせてくる。それ以上進ませないようにと、とっさに掴んだ手首はびくともしなく、オノラの知らない強い男性の力だった。目に涙が堪っていく。しかしそれとは反対に、ウィリアムの体温を、匂いを、広い肩幅を、硬い胸を、力強さを目の当たりにすれば、無意識に体が火照ってしまう。見下ろしてくる格好のウィリアムの髪が、微かに頬から首筋にかけて掛かった瞬間思わず声が上がった。 「んッ」  ウィリアムはその声を聞き漏らさず、その瞬間首筋に音を立てて唇が触れた。 「どうして、こんな事をするんです」 「君こそどうしてなんだ。もしその薬が効けば私は職を失い、他の女性を抱くようになるかもしれないのに。なにせずっとお預けだったからね」  言葉の意地悪さに堪っていた涙が流れていく。その涙すらもウィリアムの舌で舐め取っていく。男性に上から押さえられては身動きは取れない。そんな当たり前の事に気が付きながら、それでいてウィリアムがあまりに優しく触れてくるものだから、オノラは抵抗の仕方も忘れて、ただウィリアムにされるがままになっていた。 「イーサン王子の夜伽を見た後はどうしていた?」 「どうって、どういう意味、ですか」 「一人でここを慰めていたのか」 「まさか!」 「私を呼んでくれればこうして慰めてあげたのに」  下着の上から敏感な部分を、敏感だと知ってはいたがたった今初めて知った部分を撫でられ、体がビクビクと跳ねてしまう。その瞬間、耳元で小さな笑い声が聞こえた。 「直接触れてもいないのにこの調子では、君の夜の相手は大変そうだね」  声にならない声でウィリアムを睨み付けた。 「そんな顔をしないで」  下着が除けられ、確実に自分でも分かる程にぬかるんでいるだろう蜜口に、ウィリアムの指先がツプンと指先が沈んだ。   「ウィリアム様ッ!」  未知への恐ろしさと不安、そして自覚してしまったウィリアムへの愛しさからどうしていいのか分からずにその頭を掻き抱いた時だった。不意に指が抜かれ体が異物感から開放される。 「……薬など無意味だよ。私では、君を満たしてやる事は出来ないんだ」  静かな声が聞こえ、ウィリアムは一気に起き上がった。 「今から別邸に戻り荷物をまとめていなさい。分かったね?」  オノラは体を支配する熱とは裏腹に、心が冷えていく感覚を知った。
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