小さな芽

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 圭斗が今まで出会った中で「読んだことあるよ、それ。面白いよね」の言葉をこの本に向けた人はいなかった。彼女がどういう経緯でその宝物にたどり着いたかはわからないが、今この喜びと共感を共有したい気持ちに駆られる。圭斗は思わず声をかけたい衝動をぐっと押し殺し、勝手に騒ぎ立てる胸をどうにか鎮めた。  静かに走り始めた電車。発車時刻は午前八時四十九分。そろそろ学校では一時間目が始まろうとしている頃。  圭斗が座る少し遠めの向かい側。彼女は待合室での様子と同じく物語の中に入っている。その揃えられた両足で姿勢よく座り読書する姿が圭斗の脳に焼き付いた。  あの人は圭斗が降りる一つ前の駅で降りた。  彼女がいなくなった車内でも、ようやく電車が学校の最寄り駅に到着した時も、担任に「気が緩んでいるんじゃないのか」と嫌味を言われている時も、圭斗の胸は心地よくざわついていた。  次の日からの、圭斗の通学路は楽しみの彩りが滲んでいた。痛いほどの冷気や歩きにくい積雪に寛容になってしまうほどに。同じ本を読んでいたあの人を無意識に探してしまう。初めての感覚に照れる気持ちが圭斗の心をくすぐる。  あの人は今日も静かに昨日と同じ本を読んでいた。昨日と違うことは圭斗も彼女もお目当ての電車に乗れたこと。そんな彼女に共有したい宝物は圭斗の両手に忍んでいる。幼少期から引きずる恥ずかしがり屋な性格を憎もうとも今更変えられるわけがなく、圭斗はただそわそわすることしかできない。  この足を一歩でも踏み出すことが出来れば、何かが変わるかもしれないというのに。 「おっはよー! 今日は寝坊しなかったんだな」 「うるさいな、昨日はたまたまで」  最近買ったというネックウォーマーを身に着けた颯太はいたずらっこの様に楽し気な表情を圭斗に向ける。昨日、二時間目の途中から来た圭斗を授業中にもかかわらずいじり倒してきた張本人だ。  颯太とのくだらないやりとりの中、視界の隅に収まっていたはずの彼女はいつの間にか降車していた。彼女に話しかけることはやはりなかったが、どこか安心している圭斗がいた。いきなり本を話題にして近づいてくる野郎など、ましては年下。気持ち悪いと思われるに違いない。と、圭斗は自分に言い聞かせた。
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