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「早く着替えて。今日は洸士郎の好きなビーフシチューよ」
「うお、ありがたいな」
私は炊き立てのご飯を茶碗に盛りはじめた。不思議と心は乱れていない。彼がスウェットに着替えてテーブルに着いたときのうれしそうな顔を、私は微笑んで眺めた。そのまま何事もなく済むと、その瞬間まで思っていた。
「彼女とは、良かった?」
洸士郎はきょとんとした表情をした。でも、それが計算済みだということに私はいち早く気づいてしまった。大学1年の夏、持っていたテキストをかばんに隠して私に見せて、と言ってきたときと同じ。
私は自分を誤解していた。感情のたまごは消え失せたわけでは全くなく、むしろこのときを待っていたのだ。本当は、ずっと私はそれらを温めつづけてきていた。
洸士郎の罪は、不倫なんかではない。私に「信じる」幻想を与えてしまったこと。
気がつくと、私は煮立ったビーフシチューの中身を洸士郎の顔に投げかけていた。
一瞬の間の後、野獣のような叫び声。
それを聞いた私のたまごは全て割れた。
この野獣め。
さっき使ってシンクに置いてあった肉切り包丁を思い切り洸士郎の喉を狙って突き刺した。
声帯がやられたのか、野獣の声は止んだ。
包丁を左右に力まかせに動かすと、ついに鮮血が吹きだした。
床の上にあおむけに転がったまま、ひくひくと動く姿は人間ではない。
ほっとして私は死にゆく彼の残骸をずっと見守っていた。
もう、たまごにするべきものは一切自分にはない。本当の自由を得たのだと。
一筋、自分の頬を涙が伝うのが感じられた。
(了)
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