終わりよければ

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「昔は食餌と排泄は同じ器官で行ってました。考えてみるとシンプルで効率的なことかもしれない」  「昔って」と言いかけて止める。井沢とのデートは三回目だが、一事が万事、こういう会話なのだ。  友達に紹介されたこの男は二十五歳のれっきとした社会人だ。何も生物学の研究をしているわけではない。広告代理店に勤めているそうだ。  ウェイターが、次の一品「鮭のホイル焼き きのこたっぷり」を持ってきた。見るからにほかほかで湯気がすごい。ホイルを外すとお酒に蒸された食材の香りが溢れ出す。 「わあ、美味しそう」  一応、こういう場合のふつうのリアクションを取ってみて、それから井沢を上目遣いに見る。言い忘れたが、井沢はかなりひょろ長い背格好で当然座高も高い。小柄な私は意識して顔を上げないと彼の顔を直視できないのだ。  顔は悪くないのだが、と三度目のデートで品定めの目になるのが分かった。イケメンというほどではないが、色白でやせ型。わりと私の好みには近い。  私はフォークでホイルの中をまさぐり、きのこを除けて、ふっくらとした鮭の切り身を切り取った。やわらかい。  井沢はそんな私ではなく、自分のホイルの中をじっと見ている。 「食べないんですか」  少し苛立って尋ねると、 「この鮭はオスなのかメスなのかが気になりまして」 「何か違いがあるんですか。味が、とか」 「そういうわけでもないんですが、鮭というのは一度海に出てから故郷の川に帰り、産卵し受精してともに身を亡ぼすではないですか」 「そういえば、そうですね」 「オスはともかく、メスがそれほどの命をかけることに僕は敬意を禁じ得ないのです」 「そうですか」  私は軽い反発を覚える。男女共同参画社会になって久しい。むしろ鮭はわれわれ人類に先んじていたのではないか。  「私は」と言いながら、自分のフォークですくいかけていた鮭の切り身を口に運びよく噛んで食べた。旨みがよく出て美味であったが、それを心から楽しむことができなくなっている。よく咀嚼して飲みこむと、紙ナプキンをとって口を拭った。 「私は、そういう考え方は一種の男性の傲慢かと考えます。女性を男性に劣る立場のように前提しているから、そのような感慨が生まれるのかと」  井沢は目を丸くする。 「陽子さん」 「はい、何でしょう」 「陽子さんは受精をしたことがありますか」  口に入れかけたきのこが飛んでしまった。 「あの、こういう場でそのようなお話は」 「生き物の中には、カマキリのように、メスのために身を捧げるオスもいます」 「まあ、そうですね」 「オスを食べるメスの気持ち、メスに食べられるオスの気持ちはいかなるものだろうかと考えてしまうんです」 「カマキリに気持ちってあるんですか」 「例えば、の話です」  とてもそうは思えなかった。 「ともかく、冷めないうちに召し上がってはいかがですか」  話題がカマキリに移ったので、私は促した。 「そうですね」  そう言って切り身を口に含んだ井沢は幸福そうに微笑んだ。 「実に美味しい。このお店は正解でしたね」 「ええ、そうですね」  私は二つ目を切り分けて同じように咀嚼し、その後に白ワインを口に含んだ。  同じくワイングラスを手に取って、井沢は言う。 「もう一度乾杯しましょう」 「もう一度、ですか」  逆らわず私はグラスを合わせた。薄いグラスの涼し気な音が耳に響いた。 「メスが産卵に命をかけるのは当たり前のことです。それがメスのつとめですから」  当然、私は鮭の生態について返事をしたつもりだった。 「あなたはそういうお考えですか。ご無理をされてませんか。僕は、あなたの今されているデザイナーのお仕事を尊重したい」 「はい、あの」 「ある意味、僕は大した才能もない男です。それでもよろしければ」  もう、この先まで井沢に言わせようとは思わなかった。 「受精、いえ交尾をしてみましょうか。私たち」  井沢は心底うれしそうに微笑んだ。    
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